「夫婦で挑戦! NY3,100マイルレース参加までの道のり」

今年の94日から1025日まで、52日間の制限時間で3,100マイル(4,989キロ)を走る「Sri Chinmoy Self-Transcendence 3100 Mile Race」に挑戦する楊 皇蘭(ヤン ファンラン)さん。

そして昨年このレースを完走し、今年は皇蘭さんのサポーターとして同行する瀬ノ尾 敬済(セノオ タカスミ)さんと、7月下旬、都内某所に於いて対談しました。

新婚夫婦である二人の馴れ初めをはじめ、これまでの実績やレースに賭ける意気込みなど、二人三脚であり相互扶助の精神で挑戦を続ける二人のウルトラマラソンについて熱く語って頂きました。

 

関家 良一

l  レースの資金

関家:9月に予定しているアメリカの3,100マイルレースに向けて、現在どのくらい練習しているのですか?

皇蘭:毎日1720キロくらい走っています。

関家:昼に走るの?こんな暑い時に(この日は都内の最高気温34℃)。

皇蘭:はい。そういう時もありますね。

関家:うわぁ…。僕も毎日走ってはいるけれど、昼のこんな暑い時に走ろうなんて気にならない(笑)。

敬済:僕たち、住んでいる所が埼玉なので、余計に暑いんですよ(笑)。

関家:3,100マイルレースはどんな天気なのですか?暑い?

敬済:天気は、9月なのでスタート時は暑いんですけれど、どんどん気温が下がって行って、最後の方は寒いです。

関家:最後は11月くらいだっけ?

敬済:10月いっぱいですけれど、最後の方は夜とか、走らなければダウンジャケットが必要なくらいですね。

関家:へぇ~。じゃあ一つのレースで夏、秋、冬を体験するような感じだ。

敬済:まあ雪は降らないですけれど。

皇蘭:すごい大雨も降ります。

関家:ほう、雨もあるんだ。ニューヨークで行われるレースだから西海岸みたいに乾燥しているわけではないんだね。

色々な装備が必要になると思うのだけれど、滞在費も含めてけっこうお金掛かりそうだね。

今回はクラウド・ファンディングも使って資金を募っているそうですが、状況は如何ですか?

敬済:台湾のクラウド・ファンディングを使ったのですが、目標額は10万台湾ドル(約40万円)だったのですが、おかげさまで既に目標額はクリアして、現在13万台湾ドルまで集まっています。

皇蘭:その他に友達やスポンサー企業の関係で直接出資してくれる人もいるので、最終的には20万台湾ドルまで集まるのではないかと思います。

関家:実際に行ってみると思わぬ出費とかもあるから、少しでも資金に余裕があったほうが良いよね。因みに去年参加した時の費用はどうしたの?

敬済:自費でしたね。

関家:サポートの皇蘭さんと2人分?

敬済:はい。このレースは参加費だけ見ると他のレースに比べてすごく安いと思います。参加者は2,000米ドルで、サポーターが700米ドルです。

関家:食事とかも込みで?

敬済:そうです。しかも去年は運が良くて部屋も主催者が用意してくれたので、飛行機で現地に行って、レースが始まっちゃえば、問題ありませんでした。
だけど、今回は参加費に部屋代が含まれていないので、現地に行って自分たちで探さなければいけないので、けっこう費用が嵩むと思います。

関家:なんで今回は部屋代が含まれていないの?

敬済:去年はたまたま主催者の方で空いている部屋があったので、提供してくれたのかなと思います。例えば台湾から初参加した羅維銘(ルオ ウェイミン)は、宿泊代は別だったと言っていました。

関家:じゃあ今回は相当お金掛かるよね。また、円安も進んでいるしね。でもクラウド・ファンディングで何とか目途が立って良かったですね。 

皇蘭:出発まであと1か月くらいですが、早いうちにお金の目途が立ったので、気持ちに余裕ができて良かったです。 

l  瀬ノ尾さんのランニング歴

関家:僕と瀬ノ尾さんが初めて会ったのは、2004年のアメリカ横断レースの壮行会の席だったよね?

敬済:いいえ。実はその壮行会のちょっと前に、関家さんが参加した東呉国際ウルトラマラソン(24時間走)の3時間走の部に僕も参加していたんですよ。

関家:え?そうだったんだ。その時瀬ノ尾さんは何歳だったの?

敬済:21歳ですね。

関家:現役の大学生?

敬済:そうです。その大学生の3時間の部に参加していました。その時に初めて24時間走というものを間近で見させてもらいました。

関家:それまでウルトラマラソンというのは知らなかった?

敬済:ウルトラマラソンよりは、当時トレイルランニングが流行り始めていて、そちらの方に興味が向いていたかもしれないですね。日本山岳耐久レース(ハセツネカップ71.5キロ)や富士登山競走というのがあるのを知って、最初に富士登山競走に参加しました。

   スタートして、最初はすごく調子良かったので「けっこう行けるじゃん」と思ったのですが、頂上が近づくにつれて高山病に罹り走れなくなって、どんどん抜かされる一方という経験をしました。

   結局3時間30分くらいで完走できたのですが、最後は普通の登山者みたいな感じだったし、頂上で吐きまくって、ゴール後に何とか5合目まで戻って、救護所に行ってやっと回復しました。すごいレースがあるんだなぁとカルチャー・ショックを受けましたね。

関家:のっけから打ちのめされた感じだ。

敬済:その後「ハセツネは異種格闘技戦だ」という記事を雑誌で読んで、自転車をやっている人とか登山をやっている人とかも上位に来るという情報を得て、よし、それならやってやろうと気持ちを新たにしました。どちらかというと僕は「やれるんじゃね?」ってポジティブに捉えちゃうタイプなんで(笑)。それで、早速道具を買って参加したのですけれど…。

関家:僕、ハセツネは参加した事ないのだけれど、道具ってストックとか?

敬済:ストックを使う人もいれば、ランニング一本で行く人もいるし…。

関家:映像では見た事あるけれど、ランパン、ランシャツの人もいれば、登山の重装備の人もいて、そういうところが「異種格闘技」と言われる所以なのかな?

敬済:その年は海外から招待選手としてスコット・ジュレクが参加したんですよ。

関家:ああ、彼が来た年ですか。彼の講演を聴きに行ったので覚えています。

敬済:そのジュレクと、もう一人の外国人が雄たけびを上げながら走っていたのですけれど、恐らくお互いの位置を確認する為にやっていたのかなと思います。

関家:え、そうなんだ!そういうテクニックもあるんだね。

敬済:そういうのを見て「凄い世界があるんだなぁ」と思いながら走っていました。
この時は途中まで先頭争いをしながら走っていたのですが、40キロくらいで暗くなってきた時に、結果的に優勝した石川弘樹さんがヘッドライトを点けて、「じゃあ」って下りを一気に駆け降りて行かれたのですよ。僕もライトを点けて後を追おうと思ったのですが、恐くて腰が引けてしまって、全く付いて行けませんでした。そのうちに足の爪も剝がれてきちゃって…。それでも何とか粘って3位を維持していたのですが、ラスト200mでまた抜かれてしまい、結果は4位でした。

関家:因みにスコットもこの時はダメだったんだよね(総合で18位)。

敬済:彼は本気で走っていなかったのではないですかね。

関家:同じトレイルでもアメリカと日本では随分違うみたいだし、70キロくらいだと彼にとっては短すぎたのかな(笑)。
瀬ノ尾さんは当時まだ大学生だったという事ですが、陸上部には所属していたの?

敬済:その時は陸上部を辞めていました。

関家:あ、でも当初陸上部には所属していたんだ。

敬済:高校時代も陸上部で、駅伝もやっていたのですが、その流れで、推薦で陸上部に入れたんですけれど、3か月で辞めちゃいました。

関家:箱根駅伝を目指していたとか? 

敬済:元々箱根駅伝を走りたいなぁと思って大学に入ったのですが、同期の選手のレベルがかなり高くて、推薦で入った選手の中では僕が一番下くらいで、一般で入った選手とほとんど同レベルだったんですよ。そこですぐに箱根は難しいと思ってしまいました。 

l  アメリカ横断レースへの挑戦

関家:それで陸上部は辞めたのだけれど、やっぱり走る事が好きで、長い距離も含めて色々と挑戦してみようかという感じかな?

敬済:いや、そこまで具体的に考えていなかったのですけれど。
陸上部を辞めて、暫くは走る事から遠ざかっていたのですけれど、やっぱり自分は走るのが好きなんだなぁという事に気づいて、もう一度箱根を目指してみようかという気持ちになったのです。でもやはりそれほど甘い世界ではないので、自分のやってきた事を活かせる方向性って何かなというのを色々と模索しました。
その中で冒険的な事に挑戦してみたくなって、トレイルランとか…。

関家:元々冒険的な事とか旅が好きだったとか?

敬済:あ、そうですね。冒険的な事とか旅が好きで、走る事と冒険的な事を合わせてやってみたいなぁというのがありました。

関家:それで2004年に「ラン・アクロス・アメリカ」というアメリカ大陸横断レース(4,958キロ)挑戦に繋がっていくんだ。
それはどこで情報を得たのですか?

敬済:ハセツネのようなちょっと冒険的なレースを味わった事で、自分の体力を活かして何か挑戦したいという事を色々考えたのですけれど、箱根駅伝ができたキッカケがアメリカを横断する為の練習というか、予選会として始まったという事を知って、じゃあアメリカ横断を一人でできないものかなって思ったのですよ。
もちろん走りではなく冒険的な感覚で、歩いて横断できないものかなと思ってネットで色々調べたのですけれど、そうしたらたまたま2004年に開催するアメリカ横断レースのホームページを見つけたんですよ。一人でやるよりはレースの方がやれる可能性があるのではないかと思って。

関家:「俺を呼んでいるぜ」っていうようなタイミングだね(笑)。

敬済:しかもレースだったら自分の体力も活かせるのではないかって思いました。また、もしもこれを完走できたら、箱根駅伝に参加して完走するよりも自分の中では価値が高いのではないかって思ったのです。
そしてすぐにホームページに記載されていた日本の事務局に連絡したのですが、やはりハセツネを一回完走した程度の経験では厳しいよというアドバイスを頂きました。ただ、参加する意志さえあれば経験や基準、資格は問わないのでエントリーは可能だよと言われて、じゃあやってやろうという感じでしたね。

関家:じゃあアメリカ横断レースの前に走ったのってハセツネだけなの?

敬済:そうですね。他にウルトラマラソンどころか、フルマラソンにも一度も出ていないですね。

関家:すごいね!

敬済:ハーフマラソンには陸上部時代と個人でも数回ありますが、それだけです。

関家:まさに冒険的なチャレンジだね(笑)。アメリカ横断レースの時のサポート体制はどうだったの?

敬済:中学校時代の友達に頼んだのですけれど、たまたま彼は海外の高校を卒業して、ちょっと時間が空いている時期だったので、その時に会って「こういうレースに出るのだけれど、ちょっとサポートに来てくれない?」って軽く言ったのですけれど。

関家:ちょっとじゃないじゃん(笑)。

敬済:僕もレースの事はよく分からなかったのですが、とにかく車のサポートが絶対に必要という事だったので、お願いしたのですけれど、「面白そうだから良いよ」って言ってくれて。

関家:それで実際に走ってみて、特に最初の頃とかは「何でこんな事を始めちゃったのだろう」とか、そんな事を思わなかった?

敬済:けっこう抑えめに走ったので、1週間くらいは怪我もなく順調でした。

関家:「お!案外行けるじゃん」って感じ?

敬済:もう一人、トランスヨーロッパとかを完走されている菅原強さんが前半をサポートしてくれたのですが、菅原さんに言わせるとそれでもまだまだ速いという事で、もっと抑えた方が良いと言われました。今思えば確かにその通りで、抑えて走っていたつもりでもやっぱりちょっと力んでいたのかなと思います。
案の定、10日目くらいで片脚がシンスプリント(脛骨の炎症)になったのですが、歩きながら様子を見ていたら数日後にもう一方の脚もシンスプリントになってしまいました。
それからも騙し騙し歩いていたのですが、痛みが全然引かなくて、他の選手から頂いた痛み止めを飲んで凌いでいました。痛み止めで少しは和らぐのですが、それでも走れないのでずっと早歩きの状態でした。

関家:じゃあ10日目くらいからずっと早歩きの状況で、残り50日以上ずっと耐えていたんだ?

敬済:トータル64日間ですから、そうですね。最後までずっと早歩きの状況でした。

関家:途中で止めようとか思わなかったの?

敬済:止めようとは思わなかったですね。

関家:だって痛いじゃん。その痛みがどういうものなのか、ウルトラマラソンの経験がないから分からないわけでしょ?それを受け入れながら50日間耐えなきゃならない。

敬済:10日目以降は「何やってんだろう」とか「何でこんな大会に参加しちゃったんだろう」とか、あと50日間とか考えたら一生終わらないのではないかと思って、ちょっとした絶望感もあったのですが、ただ、もしここでリタイヤしても、その後どうしたら良いのか分からなくて。だからリタイヤを考える選択肢が無かったというか。

関家:毎日、関門というか制限時間があるんでしょ?

敬済:そうです。制限時間が何時、何分、何秒まであって、その時間までにはゴールしなければならないので、それがかなり厳しかったですね。

関家:例えば途中で「これは今日間に合いそうにないな」という日もあった?

敬済:それはずっとありましたね。半分の地点まで来て「5分オーバーしている」とか、サポーターが教えてくれるのですよ。そこからペースアップしなくちゃいけないし、信号があったら止まらなきゃいけないし、街中に入ったら走り辛かったりするし。サポーターがゴールから逆走して、車のメーターだから誤差があるかもしれないですが「あと何キロ」というのを教えてくれて、それに従うしかなかったですね。
毎日5分前とかにゴールしていて、一番短い時は10秒前にギリギリ間に合った日もありました。

関家:え~!秒単位で⁉

敬済:ありましたね。最後にラストスパートして、何とか。

関家:仮にそこで時間オーバーしたら即リタイヤという事になるのかもしれないけれど、そうしたら痛みから解放されて楽になるかなとか考えなかった?

敬済:それも考えなかったですね。

関家:多分「絶対に制限時間内に完走するんだ」って思い続けていなかったら、どこかでふっと気持ちが切れたところで終わってしまったかもしれないね。

敬済:一回そういう気持ちになってしまったら、もう二度と戻れないというか、完走できないと思っていたので。

関家:精神的に相当強くなければ、そうは考えられないよね。ひょっとしたらそれまでにウルトラマラソンの経験が無いから、逆に受け入れられたという部分もあるかもしれないね。ある程度経験を積んでいたら「ああ、この状況はこうだ」って変に計算できちゃったりするじゃん。

敬済:そうですね。何も知らないで、何も計算が無くて、ただアメリカを横断したくて大会に参加して、友達も巻き込んじゃったというか(笑)。友達もずっと寝る時間も無くて。

関家:ヤバいところに連れて来られたなって感じかな(笑)。

敬済:レースではゴールして、ホテルまで100キロとか、1時間くらい離れている事なんかザラにあるんですよ。そうすると翌日はまた1時間掛けて前日のゴール地点まで戻らなければいけないわけで、その運転だけでもかなり大変だったのではないかと思います。

関家:毎日制限時間ギリギリだから、そのぶん休む時間も他の人より少ないんだよね。やっぱり早い人はまだ明るいうちにゴールして休む時間もいっぱいあるから、翌日は休養充分でまたスタートできるけれど。

敬済:9時にゴールして、ホテルへの移動中に晩御飯を食べるのですけれど、これも毎日ハンバーガーとかピザとか決まりきったもので。ホテルに着いたらもう荷物を持つ余裕も無くて、サポーターに任せっきりで。部屋に入ってもシャワーを浴びる余裕も無くて、そのまま寝ちゃったりとか。身体が汗疹でかぶれてしまったり、髭を剃るのも面倒だから無精髭もすごかったりと、毎日がそんな感じでしたね。

関家:実際に走っている所の映像を観たけれど、全然前に進んでいなかったものね。

敬済:そうですね。自分では走っているつもりなのですけれど、サポーターの友達が横を普通に歩いているスピードと変わらなかったですね(笑)。だから自分が歩いたら絶対にゴールできないから、格好だけでも走っていないとどんどん時間に追われてしまいますので。

関家:ウルトラマラソンの初レースにして、とんでもなく凄い経験をしたんだね。 

l  瀬ノ尾流ウルトラマラソンとの関わり方

関家:2004年のアメリカ大陸横断レースを完走した後、34年ほどレースから遠ざかっていましたね。これはある種燃え尽き症候群みたいなところがあったのかな?

敬済:アメリカ横断の達成感がすごくて、他のレースに出てもそれを超えるような達成感を得られないような気がして。あとアメリカ横断レースでスピードが全く無くなってしまって、自分の思うような走りも出来なくなっていたので、自然と走る事から距離を置いていた感じですね。
その間は旅をしたり冒険的な事をしたりしていました。例えばインドに行ったり、キリマンジャロに登ったり。あとレースではないのですがオーストラリア大陸を横断したいと思って、半分走って、残り半分を自転車で行ったりとか。

関家:へぇ~、そんな事もやっていたんだ。アメリカ大陸、オーストラリア大陸を横断して、この後2009年にはヨーロッパ大陸横断レース(4,487キロ/64日間)も完走しているんだよね。スケールが大きいなぁ。

敬済:そのトランスヨーロッパの時は、今度は完走だけではなく順位争いもしたいと思って臨みました。優勝はできませんでしたが(総合2位)、ある程度納得できる走りができたので、アメリカ大陸の時からはステップアップできたのかなと思います。

関家:なるほど。ここでまた達成感を味わえたからかもしれないけれど、その後にまた56年レースから遠ざかっていますね。この時も旅とか冒険とかに出かけていたのかな?

敬済:いいえ。その時は仕事の関係で看護学校に入ったので、資格を取る為の勉強も大変でしたし、就職して病院で働き出すと忙しくて走る時間が無かったので、レースの事を考える余裕も無かったですね。まあタイミングが合えば大きなレースとかに出たいとは思っていたのですが。

関家:大きなレースってやっぱり大陸横断レースとかだよね。実際にこの時期ってそういうレースも開催していなかったのかな?

敬済:2012年にヨーロッパ大陸横断レースがあったのですが、この時はタイミングが合わなかったという事ですね。

関家:その後2015年にフランス一周レース「トランス・フランス(2,741キロ/43日間)」に出るのですが、その少し前に柴又100キロレースを走っていますね。

敬済:柴又はトランス・フランスの為の刺激入れのつもりだったのですが、フランスは久しぶりのステージレースで、リュックも背負って走らなければならないので、リュックに水を入れて、トレーニングの一環として走りました。もちろん僕の他にリュックを背負っている人はいませんでしたが(笑)。

関家:だって柴又ってエリート・レースだよね?

敬済:暑い日だったのですが、7時間台で走れれば良いかなと思っていたので、予定通りに7時間51分で完走できて良かったです。

関家:リュック背負っている人間が全体の6位だものね(笑)。やはり元々スピードがあるんだよね。そのスピードを活かして、例えば100キロの記録を縮めるとか、24時間走の記録を狙うとか、そういうのは無いの?

敬済:ああ、そういうのは興味ないですね(笑)。24時間走とかは向いていないと思っています。24時間走は走り続けなければいけないというプレッシャーが掛かりますが、自分自身そこまでメンタルが強くないと思っているので。

関家:アメリカ大陸横断の話なんか聞くと、充分メンタル強いと思うけれどね(笑)。でも柴又の快走の流れでフランスも良い走りができたみたいで、ここで初めて優勝をされたのですね。

敬済:トランス・フランスは自動車レースのツール・ド・フランスのコースを真似てできたレースですが、フランス人の強い選手が出ていて、その人とずっとトップ争いをしていたのです。総合タイムで5分以内というトップ争いだったのですが、ゴールの7日前くらいに彼がお尻を怪我してしまい、翌日にリタイヤしてしまったのです。ステージレースは怪我しちゃうと走れないので、そこが難しいところですね。

関家:そうだよね。どこかで頑張っちゃうとそのツケが後々に響いてくるんだよね。

敬済:ちょっとした違和感が痛みに変わって走れなくなっちゃったりとか、毎日無難に走れるようなペースを維持する事の難しさとか、色々と大変な事が多いのですが、それでも知らない土地を旅しながら走れるという楽しさもあって、そういうのも含めてステージレースの魅力と言えるのではないかと思います。 

l  より長く。走る事が好きだから

関家:皇蘭さんはウルトラマラソンのレースに参加し始めたのが2013年からのようですが、それ以前に、最初にランニングを始めたのはいつ頃でしたか?

皇蘭:2012年からです。5キロのレースから始めて、ハーフマラソンを走って、12月に初めてフルマラソンを完走しました。

関家:そして20133月に50キロレースで初ウルトラを完走する訳ですね。

皇蘭:その年の10月に12時間走で81キロ走り、11月には100キロマラソンを12時間58分で完走しました。

関家:台湾ではフルマラソンの完走回数に大きなステータスがあると認識しているのですが、そういう方向には向かわなかったのですか?

皇蘭:もちろんランニング友達や先輩達はそういうのを目指していますが、私はそうではありませんでした。

関家:つまりフルマラソンの完走回数を増やしたりタイムを縮めたりするのではなく、「より長く」走る距離を延ばす方に意識が向いたのですね。

皇蘭:単純に長く走る事が好きなんです(笑)。

関家:ゆっくりと、周りのランナーと会話しながら走るのが良いのかな?

皇蘭:そういう事より、より高い目標に挑戦するのが好きで、それを乗り越えた時の達成感がすごく嬉しい。だから100キロ走れたから次は100マイル、24時間走、48時間走、6日間走と目標がどんどん高くなります。

   台湾の女性でこういった挑戦をしているランナーはいないので、私がこうして挑戦する事に意義を感じています。

関家:走り始めてから僅か4年後の2017年には、24時間走世界大会の台湾代表選手として北アイルランドの大会に出場していますね。その前年の東呉国際ウルトラマラソンで記録した188キロというのが24時間走のベスト記録なのですね。

皇蘭:世界大会では166キロでしたが、私の24時間走はいつも大体そのくらいの記録です。

関家:それと台北ウルトラマラソンの48時間走は2016年から2019年まで4年続けて参加していますね。

皇蘭:48時間走のベスト記録は2018年の272キロです。これもIAU(国際ウルトラランナース協会)の基準である270キロを超えているので満足しています。

関家:来年もし台湾に行けるようだったらまた48時間走に参加しますか?

皇蘭:いいえ、私は…。いや私達はもう24時間走とか48時間走をメインに考えていません。マルチデイ・レースを目標にしているので。
もちろんレース間隔が開いたときに走る事はあると思いますが…。
 

l  二人の出会い

関家:皇蘭さんと私は2018年のマレーシアの12時間走でお会いしたのですが、それまではもちろん顔は知っていましたが、お話したのはその時が初めてでしたね。その中で「私今度6日間走に挑戦します。何かアドバイスありますか」って訊かれたのだけれど、僕も6日間走は1度走っただけだし、その時も途中でリタイヤしているので何と言って良いのか分からなかったけれど「毎日目標の距離を決めて、その距離に達したら休むというように、ステージレースの感覚で臨んでみたら」って偉そうな事を言った覚えがあります(笑)。

皇蘭:その時に参加したのが20181228日から201913日まで、アメリカのアリゾナで行われた「アクロス・ジ・イヤー」でした。初めての6日間走でしたが途中で手が腫れてしまい、走り続ける事ができずにリタイヤしました。でもこの時の経験が5か月後の、やはりアメリカで行われた「シュリ・チンモイ6日間走」に繋がったと思います。

関家:そのシュリ・チンモイに瀬ノ尾さんが10日間走の部で参加しており、そこで初めて二人が出会ったわけですね?その時にどういう形で会話とか接触があったのですか?

敬済:僕が最初に受付で並んでいる時に、台湾チームのメンバーが前に居て、黙って立っていたら皇蘭が「あなたの事知っています」と話しかけてきたんです。

皇蘭:何故ならばその2か月後に開催されるフランス一周レース(2,677キロ/43ステージ)に偶然、私も敬済さんもエントリーしていたので、ホームページで敬済さんの事を確認していたからです。

敬済:僕は一人で参加していたのですが、台湾チームの皆さんが良くしてくれて、荷物とかも台湾チームの横に置かせて頂いて、レースが始まっても彼女は6日間走で最初の4日間は走らないので、気にかけて声を掛けてくれたり、色々とお節介してくれたりで(笑)。 

皇蘭:私は途中でレース会場を離れてショッピングに出かけたりしながら雰囲気を楽しんでいただけです。敬済さんは強いですから(笑)。 

l  憧れのレースに参加するまでの長い道のり

敬済:ただこの時はレースの2週間前、トレーニング中に転んで左腕にひびが入っちゃって、医者からは走らない方が良いと言われた中で強行したレースだったのですよ。

関家:ドクター・ストップが掛かっていたんだ。

敬済:腕も固定した状態だったのですが、仕事もできたし、隠れて走ってみたら案外痛みも無かったので、もう一度医者に直訴したら、手を突かないのであれば腕を振っても大丈夫かなと言われたので、それで参加に踏み切ったのです。

関家:でも10日間もあれば眠気にも襲われるだろうから、よろけて無意識に手を突く危険は高いよね?

敬済:そうだったのですが、幸い転んだりする事はありませんでした。ただ、眠さは半端じゃなかったので思うように距離が伸びなくて、1,2001,300キロの目標に対して1,050キロに止まりました。

関家:それで順位は4位だったのですね。

敬済:この時はモンゴルの選手が1,221キロ走りダントツで優勝したのですが、2位から5位までが1,078キロから1,036キロまでの間に詰まっていたんです。実は僕がこのレースに出た理由は3,100マイルレースへの出走権を得る為だったので、ある程度の距離や順位は必要だと思って臨んでいました。

関家:その出走権というものには何か基準があるの?

敬済:正式な基準はないのですが、参加できるのは招待選手のみなので、招待されるにはどうしたら良いのかを考えていたのです。
実は2006年くらいから毎年、参加したい旨を主催者にメールで送っていたのですが、2008年にドイツ横断レースで2位になった時も、2009年のヨーロッパ横断レースで2位になった時にも招待はされず、2015年のフランス1周レースで優勝した時も「基準には達しているけれど、今回は参加者が多いので」という理由でダメだったので、これは主催者のシュリ・チンモイのレースに直接出てアピールするしかないなと思ったのです。その甲斐があって、レース後に翌2020年の3,100マイルレースへの出走を認めて頂いたので良かったです。

関家:2020年も走ったの?

敬済:いいえ。2020年はコロナの影響で参加できなかったので、翌2021年に繰り越しで参加する事が認められました。でもコロナの影響が長引いていたのでレース開催の有無が直前まで分からないと言われていたのですが、6月になって正式に開催する事が決まったので、やっと辿り着けたという感じですね。

関家:2006年から主催者にメールを送っていたという事ですが、このレースの存在を知ったのはいつ頃ですか?

敬済:2004年のアメリカ横断レースをゴールした時に、セントラル・パークでウルトラマラソンの雑誌を手渡されたんですよ。その中に横断レースの事は勿論、3,100マイルレースの事も載っていたんですよ。それで興味を持っていつかは走りたいと思ったのです。

関家:3,100マイルレースはどのくらいの歴史があるのかな?

敬済:今回2022年が26回目ですから、90年代後半から続いている感じですね。

関家: 多分そのレースだと思うのだけれど、3,100マイルの世界記録保持者だったエド・ケリー(Edward Kelley)と1999年に都内で会った事があるんですよ。記録が47日とか48日とか何とか言われて、全く意味が分からなかったのだけれどね(笑)。

敬済:エド・ケリーは第1回大会の優勝者ですね。今は記録も塗り替えられていて、確か40日と9時間が世界記録ですね。

関家:という事は1日平均120キロ余りを40日間走り続けるって事か…。ちょっと凄すぎて言葉にならないなぁ。

敬済:でも今回はモンゴルの選手がこの世界記録を更新すると宣言していて、これも注目ですね。

関家:モンゴルの選手って田中克祐さんが持っていた6日間走のアジア記録を塗り替えた人かな?

敬済:そうですね。ここ23年急激に伸びてきた選手です。ダイエット目的で走り始めたらしいのですが…。

関家:ダイエット目的で始めたところは僕と一緒で、何か親近感を覚えるなぁ(笑)。 

l  出会いが相乗効果に

関家:話の流れで、皇蘭さんが走り始めたキッカケは何だったのですか?

皇蘭:仕事のストレス解消の為です。私は10年間、保険のセールスをやり、その後9年間、不動産のセールスをやりました。営業の仕事はノルマも厳しくてすごくストレスが溜まります。そこで気分転換に走り始めたのですが、おかげで心も身体も元気になり、今はすごくハッピーです。

関家:なるほど。身体を動かして汗をかいて、ストレス解消には良いですよね。

皇蘭:あと、走り始めたら自分にもこんな事ができるんだという新たな発見がたくさんあって、それもすごく楽しいですね。今は敬済さんから色々とアドバイスをもらって、二人で色々な事にチャレンジできるので、そういう事を考えるとワクワクします。

関家:じゃあ2019年のシュリ・チンモイのレースで瀬ノ尾さんと知り合ってから更にランニングの魅力に嵌っていった感じですね。ちょっと話が戻りますが、その6日間走(10日間走)の2か月後に2人ともフランス一周レースに参加されたという事ですが、この時はお互いの国から一人で参加されたのですか?

敬済:そうなのですが、現地に行ったらもう一人日本人の方が参加されていました。皇蘭も台湾から一人での参加でしたが、全体でも女性の参加者は皇蘭だけだったんです。

関家:皇蘭さんはそのレースの情報をどうやって知ったのですか?

皇蘭:何故ならレースの主催者のThierryから「このレース良いよ、出て下さい」というお誘いのメールをたくさんもらっていたからです。実はそれまではフランス横断1,190キロのレースに参加したいと思っていたのですが、ボランティアの方々の高齢化もあり開催されないとの事だったので、Thierryに励まされ招待されて気持ちが動きました。

関家:そのシュリ・チンモイとフランス一周レースの間は、二人で連絡を取り合ったりしたのですか?

敬済:シュリ・チンモイの直後からFacebookの友達になって、色々とやり取りしていました。

皇蘭:ちょっと分からない事や不安な事を質問すると、すごくたくさん答えてくれます。

敬済:とにかく最初は歩くくらいでも良いから、ゆっくり行った方が良いよというアドバイスをしました。

関家:でも実際のレースではお互いのペースが違うから、接触する時間も少なかったんだよね?

敬済:実は最初の数日間はこんな感じで良いよと、彼女にペースを掴んでもらう為に一緒に走ったんです。

皇蘭:敬済さんは最初の10日間一緒に走ってくれて、すごく優しくしてくれました。そして11日目からは「ごめんなさい。僕はトップを目指したいので、ここからは自分のペースで走ります」と言って、それぞれのペースで走る事にしました。

敬済:このレースは43ステージあるのですが、けっこうサバイバルな状況だったんです。1.5ℓの水を持って、食べ物も持って、全て自分でやって下さいという感じで、ちょっと走れるレースではなくなっていたんですね。途中で一か所だけエイドが設置されるのですが、後は自分でやってねという状況だったのです。

皇蘭:たまに2030㎞売店も何もないところがあって、身の危険も感じました。

敬済:トップを狙っていた中国の選手がいて、彼は500㎖のペットボトル1本だけを持って走っていたのですが、途中で耐えられなくなって、けっこう汚い赤い水が流れているところがあったのですが、それをすくって飲んだって言うのですよ。でもそのくらいしないと命に係る状況だったのですね。その彼とのトップ争いだったのですが、途中で彼が怪我をしてペースを落としたので、無理のないペースでトップになれました。最初の10日間、皇蘭と一緒に走った事で怪我をしない脚ができていたので、最後まで良い走りができたと思います。

関家:皇蘭さんも女子一人だけの参加だったようですが見事に完走されたのですね。

敬済:しかもこのレースはけっこう制限時間が厳しくて、毎日時速66.5キロくらいをキープしなければなりません。また宿泊は毎日テント暮らしなのですが、電気も無い、シャワーも無いような場所もあり、精神的なタフさを持っていないと難しいレースだったと思います。

関家:じゃあ、そんな過酷なレースを乗り越えて、二人の間の距離が縮んだという感じかな?

敬済:そうですね。このレースで仲良くなって、その後に付き合う事になりました。

関家:なるほど。じゃあレース中は自分の走りだけじゃなくて皇蘭さんの事も気になっていたんじゃない?

敬済:レースの半分くらいまでは気になっていましたが、彼女はゴールする時にいつも笑顔で余裕を感じられたので、大丈夫だろうなと確信していました。

関家:皇蘭さんは走り始めてから10年も経っていないのに、ウルトラマラソンに対する適応力というか対応力というか、すごいものを持っていますね。 

l  過酷な状況を乗り越えて

関家:二人ともその次のレースが翌20201月から3月までアテネで開催された5,000キロレースになっていますが、これはもちろん二人で話し合って一緒に参加しようという事になったのですね?

敬済:もちろんそうなのですが、僕が「こんなレースあるけど出てみない?」って誘ったらすぐに「いいよ」という感じでした。

皇蘭:アハハ。

関家:このレースも女性の参加者は一人だったのですね。

皇蘭:そうです。一人だけ。

関家:これはひょっとしてコロナ禍の状況でレースやったのかな?

皇蘭:はい。レース始まって2週間後くらいに、騒ぎが大きくなりました。

敬済:ニュースで横浜港にフェリーが停泊している映像が流れて、日本は危ないんだなぁと思っていたら一気に世界中に広がって。それも含めてこのレースは想像以上に厳しいレースでした。コースは11キロの周回なのですが、あまり変化のない単調なコースで、コロナ禍で出歩く人が少なかったせいか、応援や見物人も居らず、食べ物も少なくて、具のないスパゲッティとかナッツだけとか、そんな感じでした。

皇蘭:私達はサポートもいなかったので食べ物の確保に苦労しました。でもそんな厳しい状況でしたが、二人で励まし合いながら頑張れたので、楽しかったです。

敬済:二人とも記録の為に走っているようなものでしたが、サポーターがいないとちょっと完走するのは難しいレースでしたね。(結果は瀬ノ尾4,395キロ。皇蘭4,058キロ)

関家:そんな厳しい状況を二人で乗り越えて、このレースの後に結婚されたのですね。

敬済:実は僕がアテネから日本に帰る同じ日に、皇蘭は台湾に帰る予定だったのですが、ちょうどその日に台湾の空港が防疫の為にシャットダウンしてしまい、帰るところが無くなってしまったのです。それで一緒に日本へ来る事になり、それからずっと一緒です。

関家:じゃあ皇蘭さんはそれから一度も台湾に帰っていないんだ? 

皇蘭:そうです。そして日本に来て3か月後の20206月に入籍しました。 

l  3,100マイルレースへの意気込み

関家:じゃあ去年の3,100マイルレースが結婚後に二人で臨んだ初めてのレースだったわけですね?瀬ノ尾さんが走って、皇蘭さんがサポートという形で。

皇蘭:サポーターとしての52日間は本当に大変でした。途中で走りたくてウズウズしてきたけれど私は走れません。寝る時間もあまりありません。その時は「こんなに大変な事はこれ1回きりよ」って敬済さんに訴えました(笑)。

関家:そのレースは1880mだそうですが、エイドはどういう形なの?

敬済:エイドはスタート地点にそれぞれの選手のキャンピング・カーが用意されていて、そこで着替えをしたり、皇蘭がゼネラル・エイドから食べ物を持って来てくれたりしました。

関家:毎日走る時間も決まっているんだよね?

敬済:6時から夜中の12時までが走れる時間です。部屋に戻るのは何時でも良いのですが、朝の6時には必ずスタート地点にいなければいけないというルールです。

関家:1日に走れる時間は18時間という事ですね。

敬済:最初のうち僕は30分前とかに部屋に戻っていたのですが、ほとんどの人が12時ギリギリまで走っているのですよ。しかもラスト7分とかあればもう1周してやろうという感じで。

関家:例えば12時前にスタート地点に戻れなかったら、その周回はカウントされないの?

皇蘭:そうです。

関家:けっこう厳しいね。

敬済:みんな睡眠時間よりも「どれだけ走れるか」しか考えていないですね。

関家:制限時間が52日間だから、1日ほぼ100キロは走らなきゃならない計算だ。

敬済:ノルマじゃないですが、そのくらいは走らないとダメですね。怪我したり、ちょっと身体が疲れていたりする時などは90キロくらいになる事もあるので、走れる時は最低でも100キロは超えていたいですね。

関家:皇蘭さんはサポーターとしてずっとレースを観戦していて、「来年(2022年)は私も走りたい」って思ったの?

皇蘭:そうですね。でも最初は二人ともランナーとして一緒に参加するつもりでした。しかし敬済さんの体調が思わしくないので、今年はサポーターとして参加する事になりました。

敬済:先ほども話したように、このレースに参加するには過去の実績だけでは難しいのですが、皇蘭は去年のレースで関係者とコミュニケーションが取れていたので、そういった部分でもエントリーが認められた感じですね。

関家:そうだったんだ。去年は旦那さんが走って奥さんがサポートしたから、今年は奥さんが走る順番ねって事じゃなくて、二人で走るつもりだったんだね。

敬済:皇蘭は去年実際にレースを見ているので、走りのイメージはできると思うのですが、実績的にはまだ経験が浅いので、僕がしっかりサポートしたいと思います。でも最初の10日間を乗り切れれば…、10日間毎日100キロを走れれば大丈夫かなとは思っています。

関家:もちろん僕はやった事ないけれど、イメージ的にはかなり厳しい挑戦だなって思うのですが、これに挑んでみようと思うだけでもすごいですよね。因みに3,100マイルってコースを何周するのですか?

皇蘭:大体5,650周ですね。

関家:5,650周‼気が遠くなるね(笑)。

皇蘭:去年敬済さんは5,000キロも完走しましたよ。

関家:あれ?3,100マイルと5,000キロって違うの?

敬済:3,100マイルだと4,989キロなのですが、時間内であれば残り11キロを走っても良くて、完走すれば5,000キロの正式な記録になるのです。

関家:皇蘭さんの目標は「とにかく完走」という事で良いですか?

皇蘭:そうです。その為に頑張ります。

関家:因みに女子で完走した人は何人くらいいるのですか?

敬済:今までに7人くらいいると思うのですが、アジアの女性はいないので、完走すればアジア人女性初という事になります。

関家:これは是非とも応援したいですね。レース中にライブ中継や記録などが観られるホームページはありますか?

敬済:多分こちらに、毎日の記録や写真、ビデオ等が載ると思います。
https://perfectionjourney.org/category/journal/3100-mile-race/

関家:分かりました。毎日チェックしますので、是非とも頑張ってください。今日は本当にありがとうございました!

敬済:こちらこそ、ありがとうございました。

皇蘭:頑張るよ!ありがとうございました。