伝説のランナー 櫻井教美誕生秘話

Noripy ~The stories behind the Legend~(前編)

 快速登山家Celesteインタビュー編

 

20221112日㈯ 都内某所 

 

今や通称名の方が圧倒的に浸透している『日本山岳耐久レース~長谷川恒男CUP』、通称ハセツネ。

202210月、記念すべき第30回大会の表彰式。登壇した歴代優勝者の中にその人はいた。

櫻井(現 朝井)(のり)()。愛称のりぴー。

2001年に初出場したハセツネは、コースミスにより優勝は逃したものの翌2002年、それまで10時間台が常であった女子トップ記録を大幅に更新し、初の9時間台で大会新記録をたたき出した。(9:47’12

ここから自身の記録との戦いが始まり、出場すれば必ず新記録樹立で優勝するという偉業を成す。記録はどんどん9時間切りに近づいていき、6回目の出場となった2008年、ついに8:54’07を出す。

周囲は驚き、記録を更新し続ける櫻井に興味を持ち、次回の彼女に期待が膨らんでいく。当然だ。

ところが、この2008年を最後に櫻井がハセツネに現れることはなかった。それでも、14年間8:5407は破られることなく、女子の大会レコードのままであった。また、当時の彼女はハセツネだけでなく、ウルトラマラソン界でもやはり輝かしい記録を収めていた。その全てのフィールドからぱったりと姿を消してしまったのだ。だが、記録は残り続け、特異な人物像は語られ続け、それゆえ会ったことがなくても「櫻井教美」と聞けば「伝説のランナー」として多くの人が知るところとなった。

今年(2022年)のハセツネで14年ぶりに女子の記録が更新された。(高村貴子:8:41’49

30回目の節目に櫻井と新記録誕生が揃うことになったタイミングで、彼女にインタビューする機会を頂いた。

櫻井教美、のりぴーの過去・現在・未来に迫ってみた。 

 

 

伝説のランナー 櫻井教美誕生秘話

 NoripyThe stories behind the Legend

 

生まれは埼玉県新座市。大学時代までをこの地で過ごしたと櫻井は、その後多摩市で仕事をすることになる。

「武蔵野線の府中本町で降りるんですね。多摩市は多摩川を渡ってすぐだったので、府中本町から自転車で永山まで通っていたんです。多摩川っていいところだな。。って。それで、通うのが面倒になり多摩川沿いに引っ越しました。それからずっと多摩川をウロウロ ウロウロ。」

引っ越して多摩川沿いをランニング、競技へ向かう地盤ができていたのかと思いきや、この時はまだ走っていなかったとのこと。

中学は陸上部、高校はバスケ部。そして、大学で*1)ワンダーフォーゲル部に所属することになるのだが、すぐに競技へ繋がっていったわけではない。徐々にジワジワと周囲が彼女に向かって動き出す。

「大学のワンゲル部では週34日みんなで集まってました。山はワンゲルに入るまでそんなに登ってないです。ワンゲルっていろんなことするんですよ。自転車、ボート、沢登りや山スキーやったり。それで、トレーニングで学校の周り走ったりしてましたけど。」

*1)ワンダーフォーゲル(独:Wandervogelヴァンダーフォーゲル)ドイツ語でwander=放浪する+vogel=鳥 『渡り鳥』が語源。19世紀後半のドイツで始まった青少年による野外活動。山野を徒歩旅行し、自然の中で自主的生活をしながら語り合うことが目的。

 

大学卒業後はそれらしきことを何もやっていなかった櫻井だが、ワンゲル部は元々アウトドア好きが集まっている。ある時、元部員らが集った場でアドベンチャーレースの話題が出た。

「“アドベンチャーレースに出た~”って言うんです。その頃、長野で日本初のアドベンチャーレース(byサロモン)が開催されて、ワンゲル部の山小屋がある妙高が会場ならちょうどいいから出よう!と出場したOBたちがいました。そのノリで、富士登山競争にみんなで出よう!という流れになったんです。そこから、走り始めました。」

のりぴー27歳、富士登山競争に初挑戦することになる。

当時、ランニングやマラソンも一般的な広がりは見せておらず、多摩川沿いにランナーの姿もないのに。まして、富士登山競争などよほどの足自慢か特訓された人たちか、はたまた奇人変人のやることと思われているような時代にだ。

だが、どうやら櫻井の周囲にはそういった『特異』がゴロゴロしていたようだ。

「山岳競技は・・いとこが高校で山岳部に入り、インターハイや国体に出場したとか、話では聞いたんですよ・・

それで、仲間と出場した初めての富士登山競争は、誰も登頂できませんでした。私も(ゴールするには)時間切れではあったけれど、とりあえず9合目関門は越えていたので自分ひとりで山頂までは行ったんです。それだけで、周りには“スゲー”と驚かれてしまって。」

その時のことを思い出しながら笑って話す様子から、途中でやめたり、ゴールできなくても当然という雰囲気の中で、彼女はゴールすることが普通と純粋にそう思っていたのではないかと感じた。ノリで出場したとしても、とにかく中途半端にしない、物事を納得いくまでやり通す体質であることが伝わるエピソードだった。

そうしてまた周囲が動いた。

母校の大学で、体育のひとつであったワンゲル授業の指導に当たっていた卒業生を介して、とある女子学生が突如櫻井の前に現れる。

「受講生の中に、広島出身のすっごい国体マニアがいたんです。国体は西の方が盛んなんですよね。それこそ、その学生は高校時代に国体に出ていて、東京に来てからも国体に出たい出たいと。。」

富士登山競争に出場したOBOGの噂は、現役生の耳にもすっかり届いていた。国体マニア女子学生は、櫻井を逃さなかった。

「国体がなんだかよくわからない私に、国体のチームを作りたいから是非参加してくれっって言ってきて。3人チームなんですよね。その頃、東京では国体への関心も低いし、都岳連も当時は関心が低かったし、(出場しても)弱いし。。メンバー集めて連れてくれば予選会突破、無理やり予選会やるみたいな。。で、まぁ、無理くり連れていかれて。。富士登山競争もまだ完走してなかったのに、国体の練習に連れ回されることになって(笑)。。そこからですね。定期的に練習しなきゃいけないって。」

期せずして開かれた入り口が、櫻井教美の性質には適合したのだろう。この後も、幸いにしてと言うべき展開を見せていくことになる。

ちなみに、同時期での国体山岳競技出場者には田中正人氏がいたようだ。その後現れるようになったのが、鏑木毅氏。

女子の参加はまだまだであったが、メンバーを集め出した国体マニア女子学生は真剣に強いチーム作りに乗り出す。

「ナンだこりゃ?荷物背負って走るとか。本気で走るじゃないですか。あの頃、*2)塔ノ岳(丹沢山塊)のバカ尾根にせっせせっせと通って登らされて、強くなりました。バカ尾根は40キロ背負ってボッカ駅伝の練習している人がいますよね。そんなところを連れ回され、*3)クライミングもあるからと、クライミングジムにも連れていかれ。仕事終わって夜12時までの練習なんてやる気ないよ。。と思いながら。」

*3)かつての国体山岳競技は、縦走(山岳ランニング)、登攀(クライミング)、踏査(ナビゲーション)の3種目が23日で行われていたが、現在はリードとボルダリングの2種目(スポーツクライミング)が行われている。

*2)塔ノ岳は神奈川県丹沢山塊のほぼ中央に位置する標高1,491mの山。ここに続く大倉尾根がバカ尾根と呼ばれており、毎年6月上旬に開催される丹沢ボッカ駅伝のルートになっている。

 

会社勤めをしながらハードな国体の練習に取り組んでいた自分を、生活を、櫻井は驚きを持って振り返っていたが、それがその後のフルマラソン、ウルトラマラソン、トレラン、登山走、そしてハセツネの土台になったとも言う。

「国体の練習がすごすぎて、ね、強くなりますよね。荷物が重いから、筋トレしなくても背筋も鍛えられるし。全身筋肉になります。」

「自分ひとりだったら絶対やってないですよ。でも、なんだろう。やだなって思いつつ、結局34年続けたかな。。」

2000年、のりぴー国体出場を果たす。時を同じくして、またまた声がかかる。

「都岳連が主催してるからと国体選手が招待された?んです。当時は参加者が少なかったから、“ハセツネ出てもいいよ。出てみなよ。”くらいのことで。」

これが運のツキだった。

と、ここで櫻井はゆっくりと時間の経過を遡り、確認し始めた。

「国体後、(前述の)長野でのアドベンチャーレースに出場した仲間が、今度はアメリカに行きたいと言い始め。。どうしても、女子が一人必要だからとチームを組むことになり。。マウンテンバイクとか、夜山ん中走るとか、ハイドレーションやら何やらいろいろ見せられて、買わされたりとかね(笑)。それが、ハセツネ出場の前かな。」

この一度限りではあったが、ハセツネ出場よりも先にアドベンチャーレースに挑戦していたことが判明した。

「国体もそうでしたけど、アレもコレもといろいろやらなきゃならないのが面倒で。頭を使いながら走るなんてそもそも無理(笑)。走るだけならまぁ、いいかなって。」

この頃、国体に出場した仲間とトレイルランニングの大会にも出場する機会があり、櫻井は『みたけ山山岳マラソン』や『青梅高水トレイルラン』で優勝経験がある。

2000年から2001年にかけては、怒涛の年だったようだ。記憶を辿りながら飛び出す話は、ハセツネ以外のことだった。

「それから、2001年に*4)サロマに行ってます。お世話になっていたワンゲルの監督が、現役の頃からサロマにずっと出場していて、その話は聞いていたんです。最初は、監督からフルマラソンに誘われて、勝田マラソンに出たのが2000年。実は、その年、サロマにも誘われていたけれど、参加費がすごく高い!こんなにするの?と思って。当時マラソン42.195km3,000円程度だったのに、100km14,000円⁉。北海道まで行く費用を考えたら、全部で10万かかるじゃないか。。これは厳しい、とその年は断念しました。そしたら、その年に、安部友恵さん(旭化成)が世界記録を出したんですよ。サロマで世界記録が出た!と衝撃でした。じゃ、翌年は出てみようとサロマに挑戦することになったんです。」

*4)サロマ湖100ウルトラマラソン 1986年に始まった北海道サロマ湖周辺で開催されるウルトラマラソン。比較的平坦なコースで記録が出やすいとされている。2000年は安部友恵が6:33’11で世界記録を樹立しており、現在も100kmウルトラマラソンの女子世界記録。櫻井は、2001(8:00’41)2003(7:20’02)2007(7:16’23)で優勝している。

櫻井は、いわゆる実業団のマラソン選手ではないことをお忘れなく。

 

多種多様なスタイルの『走』をここまで一度にやりこなし、結果も伴っているランナーを見たこと、聞いたことがあるだろうか。

「すべては、ワンゲルなんですよ。あそこから始まって繋がってるんですよね。」

そもそも日本のトレイルレースの始まりの頃は、山岳系の人間が多かった。今よりも山岳競技色がしっかりしていたし、どちらかというと、アドベンチャー的な考えでもあった。櫻井にとっては特別ではなく、ワンゲルの延長線上のようなところが幸いしたのだろう。

「今度こそ、真面目に仕事しようと思っているところに次はコレ、次はソレと入ってきちゃうんですよ。」

なんとかやっていたと言うが、仕事と複数の競技に向けたトレーニングの両立には、並々ならぬ努力がいったと思う。

「ほんとうに忙しかったと思いますけど、家に帰って分刻みにやることやって。電話が来たって、出やしないし。私の流れを止めないでって(笑)。」

 

レース的には、ロードと山岳に大きく分けて見ることができるが、次々と入ってくるレースに対応するためのトレーニングの秘訣はあったのだろうか?

「照準を合わせたレースがあれば、トレーニング内容の比重を考えてはいました。このレースのために、このトレーニングと決めて。他、繋ぎのレースに関しては、基本的に平日は多摩川沿いをランニング、週末は山に行っていればおよそ対応はできました。

(前述の通り)山岳競技をやっている頃は、それがトレーニングになっていましたから。

ん~、でも(競技生活)最後の方は、やっぱりギリギリになってくるというか、研ぎ澄まされていくというか、結果を出すためにも狙うレースを絞るようになっていきました。並行してはできなかったですよ。最後の方はね。だから、今年は山をやらず100kmのロードに集中しようとか、100km片付けようとか。それができたら、次は山とか。」

 

出場したどのレースでも結果を残すことのできる櫻井の強さがあった。

最近はロードと山岳を並行して、時間さえあればとりあえずレースに出ているようなランナーも少なくない。全員がそうだとはもちろん言わないが、思うような結果に至らなかったことを、他のレースのせいにしているような言い訳は通用するはずがない。

のりぴーは、何事もやるからにはベストを目指して納得のいくまでやる。中途半端にしないのだ。

 

 

ハセツネとウルトラマラソンのイメージが強い櫻井だが、実はいちばん好きなのはフルマラソンだという。

「フルマラソンは集中できるし、スカッと走れた時にスカッとした状態で終われますよね。100キロやそれ以上、一度だけ出たことがある24時間走になってくると、スカッと感はないかなぁ。ボロボロになって終わるんですよね。気持ちよくは終われないです。結局、フルマラソン中心に練習をしていたかもしれない。それより短くても、フルより速くは走れないし(笑)。10キロでもハーフでも、ペースはフルと同じになっちゃう。そう考えると、フルマラソンのペースをどれだけ維持できるか、実際維持はできないんだけれども、フルの感覚を持って、その8割のペースを続けることは100キロであればイケるかなとか。フルマラソンが軸ですね。時間で考えると、7,8時間くらいはそのペースを維持できると。」

自分の体感に確信があるからできることだ。真のマイペース。

「いちばんスカッとしたのは*5)奥武蔵。あの時の仕上がりが結構すごくて。最高にいい仕上がりでしたね。」

*5)奥武蔵ウルトラマラソン 埼玉県毛呂山総合公園をスタートし、奥武蔵グリーンラインに沿ったアップダウンのあるロードレース。全長78㎞、最大高低差812m。

 

2008年の奥武蔵ウルトラマラソンで女子優勝の櫻井は、男女を合わせた総合順位でも3位(5:43’36)。

「週末の朝、鎌北湖に車を停めて上まで走るわけですよ。朝めし前ですよ。朝ごはん食べないで、往復55キロくらいを走るんですよ。当時は朝めし前にそれができてた。すごいですよね。体が使えてたというか、ご飯を食べなくても、あのコースを行って帰ってこられるくらい体の使い方、エネルギーの回し方ができてたんでしょうね。あの頃はほんとにすごかった。走って(エネルギーを)使い切っては食べて、またそれを使って使って。直前に食べなくても、走ることにエネルギーを回せる体に自然となっていたんでしょうね。」

無我夢中だった自分を振り返って、少し興奮した面持ちであった。

この時の1位はウルトラマラソン界では名の知れた神宮(しんぐう)浩之(ひろゆき)5:34’42)。

櫻井について神宮氏談:「ちょっと気を抜くと置いていかれる。」(笑)

 

『朝めし前』の話が出たので、『食』×『練習』が気になった。

「食べたければ食べる。食べなくても練習できそうだったら食べない、そんな感じでした。」

練習後のビールが楽しみ。といったランナーあるあるについても一応ぶつけてみた。

「晩酌?いやぁ、飲んだら起きられない。起きられないほどは飲まないけど、、1時に寝て5時に起きる、そんな生活だったので飲んでる場合じゃないって。」

 

伝説のランナー  櫻井教美誕生秘話。

ウルトラマラソンに関する深掘りは、この後ウルトラマラソンランナー・関家良一さんとの対談へ続きます。

 

伝説のランナー  櫻井教美誕生秘話

Noripy The stories behind the Legend~(後編)

ウルトラマラソンランナー・関家良一対談編