万里の長城100kmマラソン完走記

天安門広場ー慕田峪長城
<1996年11月3日>

下見の時
゛第2回万里の長城ウルトラマラソン" は僕のマラソン観、大げさに言えばマラソンを通しての人生観までも変えてしまうような一大事件となった。
1996年5月、マラソンの専門誌のある広告に僕は心を奪われた。
中国の万里の長城で100kmマラソンをやると言うのだ。2年前に一度サロマ湖で100kmを完走した事があるものの、昨年の富士五湖117kmでは60km地点でリタイヤ。その後も膝の故障などもあって100kmどころかマラソン自体から遠ざかっていた時期だ。
「もう一度あの感動を味わいたい。」
大会は11月だ。「半年も頑張れば間に合うんじゃないか。」そう思い、とにかく練習を再開した。
僕の膝は短い距離なら何の支障もなく走れたが、5kmも超すとジワっと痛み出す状態だった。
「完走できるかどうかわからない、でも目標を定めてやるだけの事はやろう。」そう心に誓い、この大会への参加を決意した。
29歳だった僕は20代最後の記念として母を初めてこのツアーに誘った。
母は以前から万里の長城を一度見てみたいと言っていたので、こんな親孝行もたまにはいいかなと思った。
大会に申し込んでから5月・214km、6月・150km、7月・261km、8月・303km、9月・305km と順調に走れていた。
8月を過ぎる頃はある程度長い距離を一度に走っても膝の痛みは無く、完走への自信を深めていた。
しかし、大会一ヶ月前の皇居周回の50kmマラソンで膝の痛みが再発。
目の前が真っ暗になった。「俺はもう一生100kmなんて長い距離、走れないんじゃないか」疑心暗鬼に陥った。
だが、大会までの一ヵ月という時間がある程度僕の気持ちを落ち着かせてくれた。
結果を恐れていては何も始まらない。とにかくスタート地点には立とう。ある意味で開き直った。
母もボランティアとしてずっとレースに付き合うと言う。
途中で何があっても制限時間の13時間内はとにかくコース上にいようと思った。
スタート前
11月3日、天安門広場に面した中国歴史博物館前に日本人約20人、中国人約40人のランナーが集まった。
辺りは真っ暗で人通りも無い。吐く息が白くなる程寒かった。
午前5時、呼びかけ人で主催者の海宝道義さんの合図によって100kmのドラマの幕は切って落とされた。
スタートと同時に数名の中国人がダッシュをかける。つられて日本人のエリート達もそれに付いていく。
「おいおい、みんな速すぎるよ!」参加者のひとり加藤三雄さんが苦笑しながら言った。
前日の懇親会の席で「みなさん、私と一緒にゆっくり走りましょう」と言っていた頭にかぶった傘がトレードマークの「巨人軍団」の斉藤安広
さんもスタートから2km程で僕の視界から消えて前に行ってしまった。
僕は50kmまでをキロ7分、残り50kmをキロ8分というペースを設定していて、最初からそれを守ろうとした。
5km地点の建国門外の大きなビルの大時計は5:35を示していた。
いつの間にか僕の後ろには誰もいなくなって、僕の周りに3人、40代くらいの中国人男女がいるだけだった。
彼らはもちろん100km初挑戦で、ペースが判らず、誰か日本人に付いていこうと思っていたらしい。
そのうちの一人が「こんなペースじゃ間に合わないよ。もう少し前に行こうぜ。」と仲間を煽っているような様子だった。
僕は不思議と落ち着いていて、周りのものには一切気を取られず自分の走りに専念できる心境にいた。
11km過ぎに初めてエイドがあった。そして母もいた。通過タイムが1時間14分。
「こんなに遅くて大丈夫なの?」と、心配そうな母。しかし横にいた海宝さんが「大丈夫、大丈夫。一番いいペースだよ。」と僕を励ましてくれた。
僕もタイム云々より自分の走りができている事が嬉しかった。
11キロのエイド前で 15kmあたりで後藤景子さんと黒沢佳文さんに追いつく。
後藤さんは100km初挑戦で、ベテランの黒沢さんが併走しているらしい。
しばらくこの二人に付いて行く事にした。この付近はどこまでも真っすぐにのびた道路の両端に銀杏並木が延々と続いてて単調で変化が無く、一人で走るのは少し淋しいところだ。
二人と会話しながらの走りは随分と気を紛らしてくれた。
35km付近で後藤さんのトイレ休憩の間に僕が一人先行するようになった。
40kmで前田静一さんに追いついた。この頃は中国人ランナーが続々とリタイヤしていてバスに収容されていた(しかしリタイヤしたはずのランナーがこの先で再び僕の前を走っていたのには少々拍子抜けしたが・・・)。
50kmの通過がちょうど6時間、思った通りのペースで走れている。
55kmで星英雄さん、60km手前で沢田初美さんに追いついた。
これだけの距離を走るのは一年半前の富士五湖でリタイヤして以来だ。しかも膝の痛みも全く感じられない。走れている。
そして60kmのエイドに到着。ここにスタート前に目標にしていた斉藤さんと阪本真理子さんがいた。
ここのボランティアも担当していた母の話では、僕の事を心配して約30分もの間、ここで待っていてくれていたらしい。
ただでさえ寒い所に長い休憩をしていたので身体が冷え切ってしまったらしく「すぐに追いついてね。」と言い残して二人は先にエイドを後にした。
僕もあの人達に付いていけば何とかなるんじゃないかと思い、間もなく彼らを追いかけてエイドを発った。
約2kmほど先でやっと彼らに追いついた。
阪本真理子さんと 僕は二人の事をよく知らなかったので色々と聞いてみたら、斉藤さんは今年だけでウルトラマラソン12回目、しかも一週間前に100kmマラソンを完走してきたばかりだと言う。
そして阪本さんは毎週のようにフルマラソン以上の大会に出ていると言う。
「えらい人達に付いてしまった」そう思った。
ここまで自分のペースで走ってこれたがここから先、この人達の足を引っ張ってはいけないというようなプレッシャーに襲われる感じがした。でも完走したい。その為にはそのプレッシャーをも受け入れなければならないのだ。
72kmのエイドを出るとき僕は一度気持ちが切れて、「もう、ちょっとキツいんで先に行って下さい。」と弱音を吐いた。
しかしそれが聞こえなかったのか二人は僕の言葉に全く反応を示さず走り始めてしまったので、何かバツが悪い感じがして再び彼らに付いて行く事にした。多分、聞こえないフリをしたのだと思う。
ここからゴールの慕田峪長城までのメインロードを一旦外れて片道約6kmの道を往復。神社を折り返しにする。先行していたランナーとすれ違うと斉藤さんも阪本さんも「お疲れさん、ご苦労さん。」と声を掛ける。
中国人ランナーには「ご苦労さん」を中国語で「クーロン」と声を掛けていた(通じていたかは別にして・・・)。
決して「頑張れ!」とか「ファイト!」とは言わないらしい。
折り返しの神社前で この近辺の清掃整備に駆り出されていた中国軍隊の若者達が斉藤さんの傘を見てニヤリと微笑した。
地元の子供達が僕等の走る姿をキョトンとして見ている。
「ニーハオ」と声を掛けると照れて横を向いてしまった。
折り返し地点の神社で記念写真を撮った。
僕は少しでも先に進まなくては間に合わないんじゃないかと内心焦っていたが、斉藤さんも阪本さんも余裕で写真を撮り合っている。
大会に参加する事、走る事を心から楽しんでいるみたいだ。
折り返し区間が終わると再びメインロードに戻り、85kmのエイドで休憩をとった。
阪本さんは遅いペースにどうも足が冷えるとの事で斉藤さんと僕を置いて先にエイドを出発し、ピッチを上げた。
僕達も後を追うように走り始めたが、その差は見る見るうちに広がっていった。
ここから慕田峪長城入り口までは延々と登りが続く。
90km付近で佐々木泰さんに追いついた。
ランパン、ランシャツで走っていた為に身体が冷え切ってしまいピッチが上がらないらしい。
僕と斉藤さんは途中で歩きやストレッチを入れながら、とにかく足を前に運んだ。
登り坂は延々と続く。苦しさを紛らす為に斉藤さんと世間話をしながら往く。
斉藤さんは「家も近いし同じジャイアンツファンだから、日本に帰ったら巨人軍団に入りなよ。」などと冗談を言っては僕を笑わせた。
残り3.5km、慕田峪長城の道標が見えた。斉藤さんが時計をさかんに確認する。
僕の時計は途中で故障して動かなくなってしまったので全ては斉藤さん任せの状態だった。
レース中、コース上を巡回していたサポート役の津川芳己さんが僕達の横に車を止めて温かいお茶をくれた。
辺りが薄暗くなり始め、寒さが身にしみてきた。
斉藤さんと 制限時間の約50分前に98km地点の慕田峪長城の駐車場へ着いた。
阪本さんがここで僕達を待っていてくれた。
普通なら残り2kmでこれだけの時間があれば楽勝で完走できるのだが、ここから長城まで約1200段の階段を登り下りしなければならない。
斉藤さんが少し焦った様子で「さあ、行こう。」と僕を急かした。
「何とかゴールできそうだ」僕は胸を躍らせながら階段を登った。
約25分ほどで長城に着いた。この時ちょうど陽が完全に暮れて、辺りが真っ暗になった。
長城で3人で写真を撮り合う。そして後は階段を下るだけだ。
下り口に行こうとすると、ここにいた守衛に「ここからは危険だから入るな」とコース外の下り口を指示された。
下見で来たコースと違うので果たして下りれるのかなという不安にかられる。
途中、道が二手に分かれていたが迷って立ち止まっている時間はもう無い。
「こっちじゃないか?」「いや、こっちだ」僕達は持っている勘と運を最大限に使い果たし、行く道を選んだ。
「急がないと間に合わないぞ!」斉藤さんと阪本さんのペースが上がる。僕も必死に付いて行こうとするが予期せぬ事にここで僕の身体全身の力が抜けてしまい、立っていられなくなってしまった。貧血のようだ。
目も虚ろでこのまま眠ってしまいそうな感覚だ。
僕は斉藤さんの肩にもたれかかり、一歩一歩ゆっくり歩を進めるしかできなくなった。
ちょうどこの時ゴール地点から先にフィニッシュしていた下島伸介さんが心配して様子を見に僕達の所へ来てくれた。
僕は左に斉藤さん、右に下島さんの肩に担がれてまるで夢遊病者のような状態に陥った。
「気だけはしっかり持て!」下島さんが怒鳴るように言う。
やがてゴールが近づくにつれだんだんと血の気が戻ってくるような感覚が蘇ってきた。
長い長い階段を下りきると数十メートル先にゴールテープが見える。
最後の力を振り絞り僕は一人で立ち、自分の力で走った。
斉藤さんと阪本さんと手をつないでバンザーイ。
そしてゴールテープを切る瞬間涙が溢れ出た。まさに至福の瞬間である。
    感激のゴール
制限時間の僅か5分前だった。僕はその場にうずくまり何度も呟いた。
「ありがとう。ありがとう。」
斉藤さん、阪本さんと握手した。そして海宝さんが僕の肩をたたいて、「お疲れさん。いい走りを見せてくれてありがとう。」と言った。
母も泣きながら声を掛けてくれた。「良ちゃんよかったね。本当によかったね。」
僕は何度も何度も唇を震わせながら言った。
「ありがとう。ありがとう。」

日本に帰国して一週間後、斉藤さんとミニ完走パーティーを開く事になり、母と一緒に居酒屋に出かけた。
この席で僕は走友会「巨人軍団」に入る事を正式に決めた。
゛YOUNG GIANTS " の誕生である。