’97年中国太原100kmウルトラマラソン

レース前の集合写真

前年の万里の長城100kmマラソンに続いて1997年にも中国で行われるもう一つ別のウルトラマラソン「'97中国太原(たいげん)100km国際ウルトラランニング」に参加する事になった。
太原などという地名など聞いた事もなかったので、この6月に最初に大会の要項をもらった時は、とんでもない秘境の地でやるウルトラマラソンなのかと思い、興味を惹かれた。この頃の私は「長い距離において自分の潜在能力はもう少し高いところにあるのでは?」といったような自分自身の記録に対する興味が非常に強かった。「潰れてもいい。一度、完走よりもタイムにこだわるレースをしてみたい」とにかく結果を欲しがっていた時期だ。自己ベストは11時間08分。しかし今の力で10時間は切れるんじゃないかという自信(思い込み?)があった。大会開催日は8月30日。要項にはほとんど平坦なコースでエイドも5kmごとに設置されるとある。8月下旬の中国内陸部でフラットなコースなら涼しくて走り易いのではないか?サブ10を出すならここしかない!私は勝手にそう思い込み、早速主催者の学芸大学、渡辺先生に参加する旨、FAXをいれた。ツアーは6日間の予定で組まれていたが、仕事の都合もあって私一人、一日遅い出発の5日間の日程で参加する事になった。
北京南駅発太原行きの特急列車。 8月28日、夕方の便で成田から北京へ向かった。奇しくも前年、万里の長城100kmマラソンに参加した時と同じ便だ。昨年は搭乗機のトラブルで5時間以上も出発が遅れたが、今年は定刻通りに成田を飛び立った。
そして今年は時間通りに北京国際空港に到着。入国審査を済ませ到着ロビーに行くと、現地係員の女性が待っていた。そのままワゴン車に案内されてホテルへと向かう。車内でツアーの説明を受けた。「関家さん、明日は汽車で太原まで移動ですね。これがチケットです」そう言いながら係員の女性は私に汽車の切符を手渡した。そう、明日は太原まで丸一日かけての汽車の旅だ。
8月29日、朝6時にホテルのロビーで昨日とは違う男性の現地係員と待ち合わせをした。そして乗用車に乗せられて北京南駅へと向かった。早く着いたので駅前の広場で汽車への乗車の時間を待った。広場には人がいっぱいで物凄い混雑だ。薄汚れた衣服の人がほとんどで、同じような黄色の顔をしていても私の恰好を見ただけですぐに「よそ者」と気付かれてしまうようだ。私のチケットは指定席なので問題無いが、ここで乗車待ちをしているほとんどの人は座席を確保する為に長時間並んでいるみたいだ。駅構内の様子はさながらテレビでしか見た事のない終戦直後の日本を想像させる感じがした。
私の座席は4人一室の寝台車両で、同室の客はいなかった。その為、誰に気を使う事も無く、かなり快適なのんびりとした鉄道の旅を楽しめそうだと思った。私はシートに寝転がって本を読んだりうたた寝したりしてリラックスした時間を過ごしていた。
列車の車内にて。4人用の寝台車両だった。
2つ目の停車駅から40歳前後の女性の乗客が私の同室に入りこんできた。室内に入ると彼女はいきなり中国語でベラベラと話しかけてきた。私は困ったなぁと思いながら両手を広げて「ジャパン、ジャパン」と日本人である事を何とか伝えてみた。彼女は「はぁ~ん」と納得した表情を浮かべ、暫く室内に沈黙の重たい空気が漂った。しかし太原までにはまだまだかなりの時間がある。いつまでも黙っているのも妙なので鞄に仕舞っておいた「1000万人の中国語会話」なる本を取り出して、中国語で色々と話しかけてみた。しかし中国語の発音は難しく、全く通じなかったので、本文中の定例文を指差して「どこへ行くの?」とか「仕事は?」とか質問してみた。彼女の答えももちろん全く聞き取れなかったので、ノートに中国語で書いてもらい、その漢字の雰囲気からなんとなく理解するような、そんな気の長くなるような会話を延々と続けた。彼女は鉄道関係の公務員らしく、旦那さんは太原市内で店を持っているらしい。子供が一人いると言っていた。中国ではどちらかと言えば裕福な家庭なのかもしれない。それでもチャンスがあれば日本に働きに出たいと言っていた。私が明日、太原で100kmマラソンを走るんだと伝えるとかなり驚いた様子だった。もちろん話しの半分以上は伝わらなくてお互いに何度も「不明白(プーミンパオ)」(解かりません)を連発した。とりあえず私も「不明白(プーミンパオ)」だけは完璧な発音で言えるようになった。
食堂車内での昼食。 昼食も隣にあった食堂車で彼女が奢ってくれた。食器類はどれもところどころ欠けていて、水垢が浮かんでいるような汚いものばかりだ。彼女は鞄からティッシュを取り出して慣れた手つきでそれらを拭いた。中国では例えばホテルのレストランでもこうした事は当たり前のようだ。缶のスプライトも注文したが、生温くてかえって気分が悪くなりそうだった。食堂車の床はまるで油膜が張られているみたいで、歩くとネチャネチャと音がするようだった。料理もしつこいくらいに脂っこくてあまり美味しいとは思えなかった。
午後6時を過ぎて終点の太原駅まであと一駅となった。早くホテルに着いて日本からの参加者と合流してゆっくりと寛ぎたいと思った。しかし汽車はその駅で停車したまま随分と長い間動き出そうとしない。「何かトラブルでもあったのかな?」「やはり中国の鉄道もなかなか時間通りには行かないもんだなぁ」 私はそんな事を思いながら暮れて行く窓の外の景色を眺めていた。後続の汽車が次々に追い越して行く。「汽車の通過待ちだろうか?」しかし1時間経っても2時間経っても一向に動き出す気配がみえない。今まで車内にはクーラーが効いていたのだが、それさえも止められてしまい蒸し暑くなってきた。車掌の早口のアナウンスが車内に流れる。同室の彼女に説明を求めたが、どうやら車両の故障が原因らしい。乗客のイライラも募り、隣の車両からは怒鳴り声も聞こえてくる。「俺は明日100kmも走るんだぜ。頼むから早くゆっくり休ませてくれよ!」私も次第に苛立ってきたが、全く知らない土地に来て言葉も通じない、状況もイマイチ把握できないようなこんな立場でいたらもう「なるようになる」そう開き直るしかなかった。
結局汽車は5時間余りも停車し、午後11時過ぎにようやく復旧して動き出した。太原に着いたのが午後12時少し前。現地係員の張さんが改札口で待っていた。私はもう苦笑いを浮かべるしかなかった。用意されたワゴン車に乗って市内のホテルへ向かった。レースのスタートは翌朝の5時。「これで完走できなくても恥ずかしくないよな」と自分自身を慰めるように私はもう一度苦笑いした。
ホテルに着く頃にはもう12時を過ぎていた。チェックインを済ませ、すぐにこのレースの主催者である学芸大の渡辺雅之先生の部屋へ向かった。先生とはこれが初対面で、顔も知らない相手なので少し緊張しながらドアをノックすると中から小柄でガッチリした体格のひょうきんな顔をした男が出てきた。「道中、大変だったですね。疲れたでしょう。とりあえず中に入ってください」その人にそう促されるまま、ドアを閉めて部屋の中に入った。部屋の奥にもう一人いかにも大学教授といった凛々しい顔の男性がいたので、あの人が渡辺先生かなと勝手に思い込んだが、少し話をしているうちに最初のひょうきん顔の人が渡辺先生である事が解かった(奥の男性は小林先生だった)。
渡辺先生は汽車が遅れてホテルへの到着が遅くなってしまった事を詫び、ここまで一人でなんとか辿りつけた事を喜び、労をねぎらってくださった。私は「かえって良い経験になってよかったと思ってます」と、答えておいた。
日本から持参したというカップラーメンと良く冷えたビールでもてなしてくれ、それらを戴きながらスタートまでもう4時間余りに迫った大会のコースの説明や参加者の簡単な紹介をされた。事前に平坦なコースと聞いていたが、途中に高低差600mもの登り下りがあり、しかもこのところ連日の猛暑が続いているので、無理をしないように楽しんでと言われた。私は何とか10時間以内で完走したいと思っていたが、渡辺先生の説明を受けて、これは相当の覚悟で臨まないといけないなと思った。この時点まで誰が参加するのか、全部で何人くらい集まったのか等、全く知らされていなかったが、結局参加者19名でそのうち日本人が18名、あと一人が地元の学生という事で、゛国際"と名の付く大会にしては少し寂しい気がした。ウルトラマラソンの第一人者と言われている沖山健司さんやサロマの女王・鈴木隆子さんらの名前も名簿にあって、興味深く思った。午前3時には起床して朝食などの準備をしてほしいとの事で、1時少し前に部屋に戻り、シャワーも浴びずにそのまま寝た。
8月30日、午前3時にモーニングコールで起こされた。同室で北海道から参加の桐尾さんもすでに起きていたので、二度寝する事なく、何とかベッドから抜け出せた。2時間しか寝ていないが、それほど気分は悪くない。桐尾さんと自己紹介を交わし、一緒にホテル内のレストランに朝食を食べに向かった。すでに何人かがテーブルに付いて食事の最中だった。参加者のほとんどの人と初対面なので、まずは同じテーブルの人達から挨拶をしていった。私の隣に座った内田(遊 友裕)さんに色々と気さくに話しかけられ、だいぶリラックスできた。
朝から中華料理だったが、中国入りしてから初めてのまともな食事だったので美味しく食べることができた。他の参加者は一日三食中華料理漬けで少々うんざりといった様子だったようだ。
食事後、慌ただしく身支度を整えてホテルの目の前にあるスタートラインへ向かった。朝の5時前だが、まだまだ辺りは真っ暗で、パトカーや取材のカメラ、大会関係者などが今や遅しとスタートの瞬間を待っていた。参加者全員が集まって記念撮影。関係者よりもランナーの数の方が少ないので、何となく浮いているような気がした。
スタート直後。和気藹々といった雰囲気だ。 午前5時、ピストルの音と共に大会の幕が切って落とされた。みんな顔をほころばせながらゆっくりめのスタート。その中で沖山さんと唯一の中国人・周さんの二人がまず抜け出た。その後に沖山裕子さん(健司さんの奥さん)が続く。まだ夜が明けきれていないうえに、街灯も少ないのでちょっと走り辛い。私は鈴木隆子さん、遊さん達としばらく一緒に走った。遊さんは巨人軍団の斉藤さんと同じく傘を頭に被って走るのがトレードマーク(これを始めたのは遊さんの方が先で、斉藤さんがそのアイディアを引き継いだんだそうだ)。鈴木さんはサロマ湖での優勝当時の色々な出来事などを話してくれた。5kmのエイドを過ぎた辺りからやっと空が白み始めた。明け方にしてはすでに暑いが、曇り空の天候のせいもあってそれほど気にならなかった。周りに目立つものも何も無い真っ直ぐで平坦で広い道を3人でおしゃべりしながらひたすら前に進んだ。10kmの通過がちょうど1時間。ピッタリとキロ6分ペースで刻んでいる。
このレースは各5km毎にエイドが設けられていて、ペットボトルのミネラルウォーターにストローを挿して給水をした。10kmを過ぎるこの頃にはすっかり夜も明けていた。今までの舗装された広い道から晋?湖畔へ向けて右折するといきなり未舗装の、しかも黒い埃っぽい道が現れた。右に湖を見ながら、しかし足元にも注意しながら走ったが、この未舗装路を抜けるまでの約3kmの間に靴下やシューズが真っ黒になってしまった。
未舗装路を抜けて「旧晋祠路」という舗装路に出ると15km地点のエイドがあった。この辺りは炭坑の町らしく、陽が差してくると炭坑から出た粉塵が上空にキラキラと光って見えた。そして先ほどの湖畔の未舗装路と同様に道路上には真っ黒い炭の紛が砂状になって路面を覆い隠していた。ここからしばらく緩やかな登りになっているのだが、雨が降っている訳でもないのに今度は大量の水が川のように坂の上から流れてきた。どうやら水道管が破裂したようで、路面は炭の粉と水で泥沼のようになってしまい、走り辛いうえに先程より更に足元が汚れてしまった。相変わらず遊さん、鈴木さんと一緒のペースで走っていたが、3人ともさすがにこれには閉口してしまった。
20km地点のエイドを過ぎ、晋祠の町中に近付くと車の量も次第に増えてきて人を見かける事も多くなってきた。晋祠は世界遺産に登録されている「泥像」というお寺が有名なのだが、それほど観光地化されている雰囲気でもない。中国ならどこにでもある田舎町といった様相だ。町の一番賑やかな通りに差し掛かるとちょっとした人垣ができていて、我々がそこを通り抜けると歓声と拍手が沸き起こった。片手を上げて笑顔でそれに応えた。100kmのコース中、こんな歓迎を受けたのはここだけだった。
序盤は遊さん、鈴木隆子さんと三人で走った。
25km地点のエイドで鈴木さんがトイレ休憩すると言うので、遊さんと2人で先に行く事にした。ここから天龍山の頂上まで、延々と登りが続く。遊さんは「僕、登りは苦手なんだよね」と言いながら少しずつペースが落ちてきた。私はそれほど登りが嫌いじゃないので自然と遊さんの前を走るようになり、その差は見る見るうちに開いてしまった。ここから一人旅が始まる。この大会の1ヶ月前に奥武蔵ウルトラマラソン(75km)を走っていたが、あそこの急坂にも匹敵するようなかなり勾配のキツイ登りが続く。40km地点の頂上までの15km間で約600mの標高差があった。この区間は交通量も少なく、快晴の空の下、遥か遠くの山々の稜線や景色が見渡せて、コースの厳しさとは裏腹に目を楽しませてくれ、気分的にもリラックスできた。だいぶ暑くなってきたので、エイドでの水分補給の量が増える。山西省特産のすいかが美味しかった。35kmのエイドを過ぎると早くもトップの沖山さんが頂上を折り返して下ってきた。私とすでに5km以上の差がついている。「一人旅ですね!」と声を掛けると「まあね!」と、何とも軽やかな声で返事が返って来た。それから2分ほど遅れて2位の周さんが続く。昨年参加した「万里の長城ウルトラマラソン」参加の際に覚えた「クーロン(中国語でお疲れさまの意味)」と声を掛けたが、通じていなかったようで、無表情のままにすれ違って行ってしまった。
天龍山からの下り。左手にはペットボトルを持っている。 頂上付近には、頂上から一旦山の反対側に下って、そして1000段もあるという階段を登ると再び頂上に戻って来るという約3km間ほどのワンウェイのコースがあったので、3位の沖山裕子さんとはすれ違う事ができなかった。
前日の渡辺先生の説明ではコース上の解かりにくい所では人が立っているので、道に迷う事はないでしょうという事だったが、最後の階段の登り口がいくつもあって、しかもそこに誰もいなかったので、一瞬どちらに進めばいいのか迷ってしまった。仕方がないので、そこら辺にいた観光客に日本語で「誰か走っている人がここを通りましたか?」と身振り手振りを交えて聞いてみたが、不思議そうな顔をしながらもウンとうなずいていたので、とりあえずそれを信じてその方向へ進んだ。
その階段を登りきると40km地点のエイドがあった。何とか迷わずにここまで進んで来れたのでホッと胸を撫で下ろした。ここから今まで登ってきた道を逆に15km一気に下る。そして後続のランナーとも次々とすれ違う事になる。
視覚に障害を持つ亀井さんは小嵐さんの伴走を受けながら走っていた。二人とも暑さでかなり疲れている様子だったが、笑顔で手を上げてくれた。以降、他のランナーとも笑顔ですれ違ったが、まず口に出るのが「暑いねー!」だった。
前を見ても後ろを振り向いてもランナーの姿が全く確認できない一人旅が続く。この区間は周りに建物などもなく車も人通りも少ない本当に静寂の中の孤独走になった。途中、自転車の競技選手らしき人達が坂の登り下りの反復練習を繰り返していたが、たまに彼らが励ましの声をかけてくれた。
50kmのエイドには中華まんじゅうや餃子なども置いてあったが、この暑さでは見ているだけでも吐き気を催しそうだったので、すいかとメロンだけを戴いた。ここの通過タイムが5時間15分だったので、10時間切りは無理だろうと諦めかけた。が、次の55kmのエイドまでが随分と短かくて、5時間30分丁度に55km地点に到着できた。たまたまエイドにいた渡辺先生に「この5km区間って短くないですか?」と質問したが、「さて、どうでしょう」と笑顔ではぐらかされてしまった。
このエイドではスタート前に預けた荷物を受け取る事ができるが、私は用意していた着替えなどはせず、インクリームだけを取り出して身体中に塗りまくった。横で見ていた渡辺先生がクリームを塗るのを手伝ってくれ、ついでに脚のマッサージもやってくれた。この先、アップダウンはほとんど無いというので、「とりあえずもう一度10時間を目指して頑張ろう」という、気持ちも新たにしてエイドを後にした。
「旧晋祠路」に出るとだいぶ交通量が増えた。どの車も相当古いオンボロ車で、黒い排気ガスをモウモウとあげながら走っている。この道路はデコボコだらけで車が通る度に砂ぼこりが舞う。そして再び炭坑からの粉塵が強い陽射しにキラキラと光っているのが解かる。とにかく暑いので汗もかくし、空気も悪いので喉の乾きが早い。しかし行けども行けども60kmのエイドが現れない。やはり55kmのエイドの位置がかなり手前にズレていたようだ。そしてついに我慢できなくなって歩き出してしまった。一度歩き出したら最後、再び走り出そうとしてもすぐに歩きに変わってしまう。前のエイドから50分近く経ってようやく60km地点のエイドが現れた(後で聞いた話だとこの区間は実際には8km近くあったそうだ。そしてこの区間でリタイヤした人が最も多かったらしい)。やっと給水できると喜んでいたのも束の間、エイドの水はテーブルの上に並べられていたままだったので、強い陽射しをモロに受け、ほとんどお湯のような状態になっていた。すいかやメロン、オレンジも生温かいし、この暑さの下では全く食欲をそがれてしまった。肉体的にも、そして精神的にもかなり疲れてエイドの横に腰掛けると、地元の大人子供が私を囲むように寄って来て無言のまま私を見つめるのだった。シューズから帽子まで埃にまみれて真っ黒になりながら、疲れてもなおも競技を続けようとする異国の人間が彼らの目にはどう映ったのだろうか。エイドでは全く日本語が通じないので「謝謝(ありがとう)」とだけ言い残してこのエイドを後にした。
もう記録は二の次だ。この状況で走れなくったって全然恥ずかしくない。しかしやめようとは全く考えなかった。とにかく完走を目指して歩き続けるしかないと思った。
ここまでは所々、道路脇に背の高い木が並んでいて時折陽射しを遮ってくれたが、62kmを過ぎて左折すると今度は畑の真中を行くようになり、直射日光が容赦無く体力と気力を蝕んでいった。道路上には陽炎がゆらめいて、その遥か先にエイドがあるのを確認できるのだが、歩き続けているのでなかなかそこに辿り着かない。
ようやく65km地点のエイドに着いたが、ここでも前のエイドと同様にお湯と生温かいと言うよりはむしろ熱いスイカしか置いていなかった。ここにはボランティアがたくさんいたのだが、誰か一人でも「水を日陰に置いておこうよ」とか考えてくれないのかと少し腹立たしくも思った。だが、ウルトラマラソンに対する情報も何も無い土地に来てそれを期待する方が無理な話なのかもしれない。彼らは彼らなりに一生懸命やってくれているのだ。
お湯の入ったボトルを片手にエイドを出るとすぐ、片側三車線もある広い道路に出た。ここはまだ新しい道らしく、舗装の具合も良かったのだが、オンボロ車が得意になってスピードを上げて走っているので、排気ガスが目に沁みるほど空気が悪かった。雲一つ無いような快晴で陽射しが痛いほどだ(後で聞いた話だが、最高気温は38℃まで上がったそうだ)。
とにかく歩き続けた。エイドとエイドの間5km、約50分のペースが続いた。エイドに着くとボランティアが嬉しそうな顔で何か話しかけてくる。エイドの通過タイムを見ると前を行く沖山裕子さんとは50分も離れている。この炎天下でこの人達はただひたすらいつ来るか解からないランナーの到着を待っているのだなと思うと、私あたりがエイドの粗末さに文句を言える筋合いじゃないかなとも思った。もはやどこのエイドもお湯と熱スイカと熱メロン、熱コーラに熱スプライトしか置いていない。私はもうエイドには何も期待しない、諦めの境地に陥った。
70kmから75kmの間にちょっと賑やかで人通りの多い村があった。私が歩いているとみんな不思議そうな顔で一斉に注目が集まった。屋台の前でたむろしていた数人が私の方へ寄って来てチューブ入りのアイスキャンディを差し出してきた。私は「ノー・マネー」と通じるはずもない英語で手を横に振ったが、金はいらないよという感じだったので、「サンキュー!」と言ってそれを受け取った。彼らは「外国人に英語で話しかけられちゃったよ」というような様子で意味も無く大笑いしていた。しかしこのアイスキャンディは冷たくて本当に美味しかった。
75kmを過ぎて自動車の料金所を通過するといよいよ人通りも少なく車の交通量が増えた。あるトラックはわざわざ歩いている私に横付けするように減速して「お前、何やってんだ?」と言うような雰囲気で薄ら笑いを浮かべながら話しかけてきた。畜生、見せもんじゃねえぞとも思ったが、彼らにしてみれば埃まみれのランパンランシャツ姿でヨタヨタと歩いている外国人は、やはり格好の見せ物という事になってしまうのだろう。
これだけ歩き続けているのにエイド毎でチェックする通過タイムを見ると前の裕子さんとの差は全く変わらない。そして後ろから誰か追ってくる様子も無い(むしろ誰かに追い付いてもらいたいとさえ思っていた)。多分みんな私と同様に歩いていたりして苦しんでいるのだろう。私は当時日本で流行っていたKinkiキッズの「ガラスの少年時代」をヤケクソ気味に口ずさみながら、とにかく歩き続けた。
85kmのエイドを過ぎ、汾河に差し掛かる長い橋を渡り左折すると、片側一車線のせまい道になった。道路脇には建物も増えてきて時折日陰を通れるようになった。たまに走りを入れてみたりするが長続きはしない。今年の3月、宮古島の試走会で制限時間内に完走したくて後半に爆走した時の事を思い出していたが、今回は歩き続けても行けそうだし、かなり身体も参っていたので無理はしまいと思った。
歩きと走りの割合が9:1のペースを繰り返しながら太原市内に戻り、95kmのエイドに到着。だいぶ陽も落ちてきて涼しくなってきたし、ここで初めて冷たい水(と言っても常温だが)にありつけたので、あと5kmという事もあり元気が湧いてきた。ここからはバイクに乗った警察官が先導してくれる。キロ7分ほどのペースだが、最後のひと踏ん張りと思って走った。太原市内は高いビルが建ち並んでいて、車も人通りもかなり多かったが、中国では警察の権力がかなり高いらしく、先導のバイクが通ると皆、素直に道をあけてくれた。ここまで頑張ってきた満足感とちょっとした優越感に浸りながら市内の中心部をひた走る。ゴール地点の陸上競技場の白い外壁が見えてくるとホッとした気持ちになった。競技場の前で小林先生がカメラを構えて待っていた。「競技場の外を1周して戻ってからゴールです」と案内された。私はレース中に見た風景や苦しかった事などを思い出しながら、完走できる喜びに浸っていた。とにかくやめなくて良かった!
競技場の外周を周って戻って来るとたくさんの拍手に迎えられながら、ゴールテープの無いゴール地点に両手を挙げて笑顔のまま辿り着いた。「終わったぁ…」嬉しいと言うよりは一安心と言った気分だった。
陸上競技場に到着。後ろでカメラをぶら下げているのが小林先生。
ゴールテープの無いゴール!後ろが先導していた警察官。足元は炭と埃で真っ黒だ。 記録は12時間37分。総合で4位の成績だった。
目標のサブ10には到底届かなかったが、制限時間の14時間以内に完走できたのが5人だけという、凄まじいレースの完走者リストに名を連ねる事ができて、大いなる自信に繋がった。
その後、日本に戻ってからも数多くのウルトラマラソン大会に出場したが、苦しくなるといつもこの大会の事を思い出す。「あの大会で完走できたんだ。あれに比べたら今の苦しさなんてどうって事ないじゃないか」と思うと不思議と力が湧いてくる。残念ながらこの大会はこの年の一回だけで終わってしまったが、ランナーにとって一度はレースで苦しい思いをするのも必要なのかもしれない。この時の参加者達とは同じ苦労を共にした「同志」として、不思議な連帯感で結ばれていて、たまにどこかで会うとこの時の話題で盛り上がる。いつまでも切れる事の無い縁だと思っている。
懇親会の席で、主催者の渡辺雅之先生と。 レースの翌日は北京への移動日だったのだが、何故か私一人を除いて皆食欲が無いようだった。どうやら油料理が合わなくて腹を壊したらしく、皆トイレに行く回数も多かった。私は胃が丈夫だから平気なのだと得意になって、夕食などでは他人の分まで余計に食べたりしていた。が、次の日には私も皆と同様に腹を壊し、日本に帰国した後も10日ほどは正露丸なしではいられない状態だった(他の参加者も10日~2週間ほど調子悪かったらしい)。どうやら私だけ1日遅れで中国入りした分、症状が出るのも1日遅れたようだ。
集団食中毒といった程では無いが、こんな経験を共有できたのも連帯意識を強くするのに一役買っているのかもしれない。

ページのトップへ

 

懇親会の席で、沖山夫妻と。健司さんが1位。裕子さんが3位だった。