2012年12月6日
東呉大学に於いて
講演者:関家良一
本日は私の講演会にお集まり頂きありがとうございます。
ご存知の方も多いと思いますが、私は東呉国際ウルトラマラソンに2001年の第2回大会からずっと参加をしておりまして、今年で11回目の参加となります。
今日は2001年から昨2011年まで、参加した10回のレースを振り返りながら東呉並びにウルトラマラソンの魅力などについて語って行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
まずは2001年の大会から振り返ってみたいと思います。
2001年は3月3日から4日にかけて開催されました。
日本からは入江哲夫、武石雄二、沖山健司、そして私の4人が選手として参加。他に東京学芸大学の渡辺雅之先生が総監督として、そして井上先生がコーチとして参加。計6人で「チームJAPAN」を結成して臨みました。
選手4人は井上コーチの人選によるものですが、たまたまこのメンバーが井上さんと親しく頻繁にお付き合いをしていたという事で、このレースに向けての選考レースなどがあった訳ではありません。
レースは午前10時に小雨が降る中でスタートしました。
私は1周2分10秒前後のペースで走り出したのですが、涼しくて小雨が降る絶好のコンディションだった為、全体のペースが速く、1時間もしないうちに日本選手4人の中で最下位になってしまいました。
このレースまで24時間走の私の自己ベストは200kmちょうどで、252kmの記録を持つ優勝候補の沖山健司さんとは最大で30周、12kmの大差を付けられました。
しかし夜になり気温が10℃以下にまで下がると、沖山さんの体調に異変が起こり、医務室へ運ばれてしまい、スタートから16時間経過した午前2時頃に私がトップに躍り出てしまいました。
それまで24時間走で大した実績もなかった私でしたので、会場中の誰もが「まさか」と思ったかもしれませんが、一番驚いていたのは他でもないこの私自身だったと思います。
東呉の学生は夜も賑やかで、そんな会場の雰囲気の中にいると疲れを感じる事も無く、その後も快調に走る事ができました。
このレースはサブイベントのリレーや12時間走なども充実しており、トラックの外側で元気に走っている方々がいるとこちらも元気になれるような気がしました。
また夜が明けて24時間のフィニッシュが近付いてくると、TVや新聞の報道陣、一般の観客の数も増え出し、大歓声の中、本当に気持ちよく最後の走りを楽しませてもらいました。
結局私は夜中にトップに立ってから一度もその順位を譲る事無く、そのまま逃げ切って優勝する事ができました。
記録は246kmちょうどまで伸びましたが、それまでの私の実績から見ると考えられないような大記録で、とても自信が付きましたし、その私の潜在能力を引き出してくれたこの大会には本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
ここでその当時TVで放映されたニュース番組の映像がありますので、ちょっとご覧になって下さい。
アナウンサーが喋ってる事とか解りましたか?プレゼンしている私が全く解っていませんが…
私もずいぶん若いですね。
表彰式では挨拶の後にシャンパンシャワーを壇上からかけました。女子優勝のドイツのHelga Backhausさんは控えめにされていましたが、私は思い切り派手に飛ばしたので、前列の方々はびしょ濡れになってしまいました。
この時の挨拶で「大会が続く限り参加したいです」と語ったのですが、その後ちゃんとその約束は守っています。
続いて2002年です。
この年は何と言っても24時間走の世界記録を持つギリシャのイヤニス・クーロスが参加するとあって、大会は更に盛り上がりました。
クーロスは24時間走で世界でただ一人300kmを超える303.506kmの超人的な記録を持ち、「ウルトラマラソンの神様」と称されるのに相応しい実績をたくさん誇っています。
私もクーロスには及ばないとしても前年チャンピオンとして恥ずかしくない走りをしようと、高いモチベーションで臨んだ大会でもありました。
日本からは女子2名を含む10名が参加し、前年以上に華やかな大会になりました。
レースは3月2日の午前10時にスタート。
この日はかなり暑く、クーロスなどは上半身裸で走っていましたが、あまり速そうに見えないのに何度も何度も追い抜かれてしまい、さすがだなぁと感心していたのを覚えています。
私は100kmを8時間25分で通過したのですが、クーロスはこれを7時間09分で通過しており、格の違いを思い知らされました。
ちなみに私の100kmマラソンのベスト記録は7時間25分なので、とても敵うわけがありませんね。
スタートから10時間経過した辺りで私が2位に浮上しましたが、クーロスとは既に40周以上の大差を付けられており、順位を争うというような状況では無かったです。
とにかくクーロスは自分一人だけ別のレースをしているみたいでした。
しかし12時間を経過したくらいからクーロスも少しペースが落ち始めました。
そして私との差が32周になった辺りでついに彼が仕掛けてきて、私の背後にピタリと着いて数周走る事になりました。
最初はクーロスの考えている事が分からなかったのですが、後から考えるとこれは私を潰しに掛かろうとした巧妙な作戦でした。
そんな事とは知らず私はまんまとその作戦の罠に嵌ってしまい、一気にスピードを上げてしまったので、ここで脚を使い果たしてしまいました。写真も辛そうですね。
その後はまたクーロスとの差は開く一方でしたが、私も何とか粘って走り、それまでのアジア記録である262.238kmを上回る266.275kmを走り、アジア記録保持者の称号を手にする事ができました。
優勝したクーロスは記録を284kmにまで伸ばし「ウルトラマラソンの神様」の名に恥じない素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。
私はその差18kmという大差の2位でしたが、アジア記録を更新したという事でレース直後は新聞やテレビの記者が私を取り囲み、色々と取材されたのですが、その間にだんだん気分が悪くなり、取材直後に横になって休みました。
本当はこの時に何か補給をしたかったのですが、レース終了後すぐにボランティアの方々が後片付けに入ってしまったので、すぐに出せるのはブラックコーヒーしか無いと言われました。
しかしどうしても何か口にしたかったのでそれを飲むと余計に気分が悪くなってしまい、そうこうしているうちに閉会式が始まってしまいました。
この時の様子が映ったニュース映像がありますのでご覧ください。
最後に衝撃的な映像が出てきますが、心臓の悪い方は注意して見て下さい。
この時は閉会式の間、何とか笑顔を取り繕っていたのですが、表彰の全てが終わった瞬間気が抜けてしまったようで、頭の中が真っ白になり、気がついたら救急車の中でした。
重症というほどの怪我でもありませんでしたが、頭を強く打っており帰国後は3日間の入院を余儀なくされ、頭痛が収まり完治するまで1ヵ月半ほど掛かりました。
この時の反省を踏まえ、翌年以降は閉会式の時間を遅くするなど余裕を持った大会運営に変わり、選手へのサポートもより手厚くなったのではないかと感じました。
この中で今年の大会でボランティアをされる方も大勢いると思いますが、レース後の選手は元気そうに見えていても身体はかなり疲れていますので、どうか選手に無理をさせないような配慮をお願いしたいと思います。
続いて2003年です。
この年は3月8日から9日にかけてレースが行われましたが、まず何と言っても大会前日に行われた開会式が印象的でした。
前年に私が記録した24時間走のアジア記録を記念し、トラックの第2レーンを「関家レーン」と命名して名前が刻まれることになり、そのセレモニーが行われました。
ちなみにこの関家レーンは今現在トラックに書かれているのとは別のもので、2006年のトラックの改修工事の時に消滅してしまいました。
これはその時の様子を伝えた翌日の新聞記事です。
写真を見ると右手の人差し指が異常に長くなっているのが分かると思いますが、これは恐らく画像処理して写真を細工したものではないかと思います。
この時は、前年の閉会式の怪我の事もあったので「関家は元気だぞ」という事をアピールしようと思い、いつも以上に元気に振舞っていたのですが、その一旦としてこの人差し指を突き出すポーズを繰り返していたところ、メディアの皆さんに「関家ポーズ」として紹介され、このような象徴的な写真が使われたのではないかと思います。
レースの方ですが、前年のクーロスに続きこの年はブラジルからバルミル・ヌネスというウルトラマラソンのトップ選手が参加し、彼にどこまで迫れるか、同時に彼から色々なものを学びたいという気持ちでスタートラインに立ちました。
ヌネスは1991年と1995年の100kmマラソンの世界チャンピオンで、100kmのベスト記録である6時間18分は当時の世界記録であり、スピードでは到底敵いません。
しかし2001年のスパルタスロンでは彼が優勝し私が3位でしたが、翌2002年のスパルタスロンでは逆に私が優勝し彼はリタイヤだったので、充分に勝負できるという感触はありました。
しかし前年のクーロス同様にスタートから飛び出した彼は一度もトップの座を譲る事無くそのまま逃げ切り、273.828kmで優勝。私は261.64kmで前年に続き2位に甘んじてしまいました。
ただし私自身は2年続けて260km以上のハイレベルな距離を踏襲する事ができ、このウルトラマラソンで世界を相手にして戦えるという手応えと自信を掴む事ができたレースでもあったと思います。
現にこの年の10月に初めて参加した24時間走の世界大会で、267km走って2位になり、世界中にRyoichi Sekiyaという名前をアピールできた年になったのではないかと思います。
東呉に話を戻しますが、この年はレースの間、会場に訪れた観客や学生らが応援したい選手に投票する「超人気賞」という企画があり、私への投票が一番多かったという事で閉会式の時に記念品を頂きました。
レースは2位という結果でしたが、台湾の方々との友好の輪が広がったようで、レースの結果以上に嬉しかった事を覚えています。
続いて2004年です。
2001年からの3年間は3月第一週に開催されていたのですが、この年は3月最終の27から28日にかけて開催されました。
大会前日の開会式では現在大学のメインホールの3階にあります「ウルトラマラソンの展示コーナー」のお披露目式があり、私のパネルなども掲げて頂き光栄に思いました。
この年はレース前に一つだけ懸念していた事がありました。
それは昨年2位だった24時間走世界大会が東呉のレースの僅か8週間後に開催される事が決まり、この東呉で力を出し切ってしまうと、世界大会に影響してしまうのではないかという事でした。
私としては世界の頂点に立ちたいという思いも強かったので、何とか力を温存しながらある程度の成績も残したいという、今から思うと虫の良い甘い考えで臨んだレースだったと思います。
レースはスタート前から弱い雨が降り、レース中ずっと降り続きました。
私は7時間経過時点でトップに立ち、11時間目までその座を守りましたが、その時間に右太腿の裏に嫌な痛みを感じ、医務室に寄りました。
この時に体温を計ってみると35℃を切る低体温症だと医師に言われ、半ばドクターストップのような形であっさりレースを止めてしまいました。
レース前に懸念していた世界大会との日程が頭をよぎり、気持ちを上げられなかった結果であり、太腿の痛みや低体温症は単なる言い訳に過ぎなかったと思います。
雨は夜になって一時土砂降りになり、夜明けまで降り続きましたが、その中でもトップの大滝雅之さんは気持ちを切らさずに走り続け、最終的には2002年に私がこのトラックで作ったアジア記録を上回り、アジア人として初となる270kmを超え、271.75kmで優勝しました。
実は大滝さんもこの後の世界大会にエントリーしていたのですが、後の事を考えず、今この瞬間に自分の力を出し切ろうとする彼の姿勢に感銘し、私自身のリタイヤが恥ずかしく、とても悔しい思いをしました。
ちなみにその5月に予定されていた世界大会は諸事情によって中止となり、私にとっては二重のショックとなりました。
学生の皆さんも今後色々なチャンスに恵まれると思いますが、やれる事を後回しにしているとチャンスが逃げてしまう事もあるので、先の事は考えず今現在に全力投球する癖を付けて行かれたら良いと思います。
アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズ氏は「毎日、今日が最後の日と思って生きなさい」と語っていたそうです。
私も今一度この言葉を噛み締めたいと思います。
続いて2005年に行きますが、その前に2004年の24時間走世界大会はその後日程を変えて10月に別の場所で開催され、私はここで優勝し、ついに世界チャンピオンの称号を得る事ができました。
私にとっては東呉のリタイヤが良い薬となり、その後少し時間が開いた事もあり、体調が戻り気持ちの整理も付いたので、高いモチベーションを持って臨めたのが良かったのではないかと思います。
さて2005年ですが、この年は再び3月初旬に日程が戻り、3月5日から6日にかけてレースが開催されました。
この年は季節外れの寒波に見舞われてレース中は常に寒く、スタート時の気温が7℃。夜は3℃にまで下がり、長袖にロングタイツの格好で、特に夜間は手袋の手放せないレースとなりました。
私は過去2年間、トラック1周2分を切るペースに拘って走っていましたが、レース中盤でいつも失速し、あまり良い結果を得られていなかったので、今回は思い切ってゆっくりなペースで入ろうと決め、1周2分10秒前後で序盤を走り続けました。
実はシューズが合わずに10kmも行かないうちに右の踵に靴擦れが発生するアクシデントにも見舞われましたが、何よりも止まって休むのが嫌だったので我慢して走り続け、そのうちに痛みの事は忘れてしまいました。
100kmの通過が8時間42分と、過去2年間に比べて30~40分遅かったのですが、圧巻だったのはその後で、夜に入ってからも全くペースが落ちずに走り続け、100kmから200kmまでは8時間37分で刻み、この間にダントツのトップに躍り出ました。
私も24時間走は今までに30回くらい参加していますが、0から100kmよりも100から200kmの方がタイムが良かったのはこの時だけです。
結局このレースでは264.41kmを走り、2001年の初参加から4年ぶり2度目の優勝をする事ができました。
世界大会の優勝と併せて、私としては前年リタイヤの嫌なイメージを完全に払拭する事ができた結果になったと思います。
2006年は東呉大学のトラックが全面改装工事によって使えなかった為、大会は行われませんでした。
その代わりに台北市内の圓山公園(Yuan Shan Park)に於いて24時間走の世界大会が開催され、そこで私は272.936km走り、2004年の大滝さんのアジア記録を上回って優勝しました。
レース後の記者会見である記者から「東呉国際ウルトラマラソンで2回優勝し、台湾で行われた世界大会でも優勝しました。あなたにとって台湾はどんな場所ですか?」と聞かれ「台湾は私を育ててくれた第2の故郷と言っても過言ではありません」と答えました。
その気持ちは今になっても変わる事はなく、むしろ台湾に対する思いは強くなる一方のような気がします。
2007年に行きましょう。
この年から前回までの3月開催ではなく年末にレースが開催される事になり、2007年は11月24日から25日にかけて行われました。
この年の5月に私は結婚をしたのですが、今回は妻がサポーターとして一緒に参加する事になり、私としては特別に気持ちを入れて臨んだレースでもありました。
このレース前日の開会式で、私の過去2回の東呉での優勝と世界大会での優勝などの功績を讃える記念式典が行われ、足型プレートを取り、大学内に飾って頂く事になりました。
ちなみに私の横に写っているのが妻です。
身に余る素晴らしい表彰をして頂き大変光栄に思うのと同時に、今後もアジアのウルトラマラソンをリードしていかなければいけないという責任も感じ、身の引き締まる思いでした。
このプレートは4階のウルトラマラソンの展示コーナーに飾って頂いています。
レース当日は朝から雨が降っていましたが、スタート直前に止み、前半は晴れて暑いくらいの天候になりました。
私は150km通過まで1周2分のペースを守り、この頃には2位と15kmの大差が付く展開になりました。
夜になってから降り出した雨は夜明け前まで降ったり止んだりを繰り返し、時折り強くなるなどコンディションは良くなかったのですが、私自身の調子はレース中ずっと良く、とにかく止まらずに走り続けたレースでした。
妻も一晩中寝ないでサポートしてくれ、本当に色々と助けられました。
結局最後まで一度も座らず、歩かず、立ち止まったのはトイレ休憩の6回だけという、我ながら本当に凄まじい走りをする事ができ、トータル274.884kmまで記録が伸び、アジア記録を再び更新し、大会2連覇を達成する事ができました。
これだけの記録を作ったので新聞でもその功績を称えてくれるだろうと思っていたのですが、当日の夕刊に載ったのがこの写真と記事です。
「関家は記録を作ったが、妻とのキスは断られた」という意味だと思いますが、私としては台湾の方々に私の人間的な部分を受け入れて頂いた証として、この記事のような茶化され方は却って嬉しかったです。
私自身、過去の記録や実績に驕る事無く、これからも人として、もっともっと精進を積み重ねて行きたいと思っています。
続いて2008年です。
この年はレースの8週間前に韓国で行われた24時間走世界大会で3連覇を果たした後で、レース間隔が短かったので、充分な調整ができずに臨んだレースでした。
しかしこのレースでは、この年の8月に行われたフランス縦断レースにおいて、不慮のアクシデントに見舞われて足を切断された邱淑容さんへのチャリティーも兼ねて行われるとの事で、走った距離に応じてスポンサー企業や寄付金から彼女にお金が送られるので、その為にも頑張ろうと思いました。
この年は雨には降られませんでしたが、夜の冷え込みはけっこう厳しく、何度も挫けそうになりましたが、その度に邱淑容さんの事を思い浮かべ、今こうして走れるだけでも幸せじゃないかと自分自身に言い聞かせながら足を前に進めました。
その結果、トータル256.862kmを走り大会3連覇を達成する事ができました。
例年よりも若干距離が伸びませんでしたが、短いレース間隔の中でもきちんと結果を残す事ができ、自分自身としては満足できるパフォーマンスでした。
邱淑容さんとは今年3月に台湾一周した時に高雄でお会いし色々とお話したのですが、どんなにつらい状況にあっても現実をしっかりと受け容れて、今できる事に全力で取り組もうとする姿勢に感銘を受けました。
人生には様々な困難が訪れて、何もかもが嫌になってしまいそうな時があるかもしれませんが、そんな時こそポジティブに、明るく振る舞えるような「人間力」を私も磨いていきたいと思っています。
続いて2009年です。
この年も9月末に参加して優勝したギリシャのスパルタスロンから11週間のレース間隔でしたが、前年よりも3週間開いただけでもずいぶんと気持ちに余裕ができ、充分とは言えませんがそれなりに調整してレースに臨む事ができました。
この大会の前まで、この2009年に世界で記録された24時間走の最高記録は258kmだったので、最低でもその数字を上回りたいという思いで臨んだレースでした。
スタート直前から本降りの雨が降り出しましたが、スタートしてから1時間ほどで止み、その後は曇り空で走り易いコンディションでした。
レースは序盤からヌネスとの一騎打ちというような展開になりましたが、9時間くらいで彼がリタイヤしてしまったので、その後は自分自身との戦いで、何とか目標の記録に到達しようと頑張りました。
200kmを17時間02分で通過するとその後は睡魔に襲われ、血尿も出てかなりペースダウンしてしまいました。2位との差もかなり開いていたので安心してしまった部分もあったかもしれません。
しかしそうこうしているうちにだんだん2位の選手に追い上げられてきたのですが、何とそれは女性1位の工藤真実さんでした。
彼女の頑張りに背中を叩かれ、何とか厳しい時間を乗り越えて粘りの走りを続け、最終的には263.408kmにまで記録が伸び、大会4連覇と2009年の世界最高記録を手にする事ができました。
私以上に凄い走りをしたのが工藤さんで、トータル254.452kmを走り、従来の女子世界記録だったハンガリーのEdit Bercesの記録を4km以上も塗り替える世界記録更新となりました。
ニュー・ヒロインの誕生に大いに沸いたレースになりました。
続いて2010年です。
この年は10回記念大会でもありました。
私は2007年から2009年まで3年連続で24時間走の年間世界1位の記録を出し続けていたのですが、2010年は5月の世界大会で273.708kmという高記録が生まれていたので、このレースではその記録を目標にスタートしました。
私の体調も気象条件も良く、いつも通り1周2分のペースを淡々と刻んで走ると12時間、150km、100マイル、そして200km通過まで全てアジア記録を塗り替えるスプリットを刻み続け、自己ベスト更新も夢ではないと思いながら終盤に入りました。
しかしウルトラマラソンはそんなに甘くはなく、その後は吐き気と睡魔に襲われて急激にペースが落ちてしまい、5分間の睡眠を2回取るなど大幅にブレーキが掛かってしまいました。
それでもボランティアや観衆の皆さんの声援に後押しされて何とか足を繋ぎとめて走り、最終的には268.126kmでフィニッシュとなりました。
世界の年間1位には届きませんでしたが、2007年に次ぐ東呉でのセカンド・ベストの記録であり、大会5連覇も達成できたので、私自身としては悔いのないレースができたと思います。
ここでレースの結果を伝えるニュース映像をご覧いただきます。
最後は12時間走のフィニッシュ後にプロポーズした男性に主役の座を取られてしまいましたが、一つの事をやり遂げた男性の言葉には何か熱いものがあって、それが女性の心を動かしたのではないかと思います。
これはマラソンだけでなくどの分野にも言える事ですが、何事においても「やり遂げる」という意思を持って臨んで下さい。
その姿を見た周りの人の心も動かされ、きっと良い結果があなたにもたらされると確信しています。
そして2011年です。
まずレースの前日ですが、開会式の時に2007年に東呉のトラックで私が作ったアジア記録と、2009年に工藤さんが作った女子の世界記録を記念してトラックに「関家レーン」と「工藤レーン」を設けて下さり、その除幕式が開催されました。
私自身は2003年にも同様のモニュメントを受けていましたが、このような選手個人の実績に対して率直に評価し称えて下さる大学や大会の関係者の方々には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
この場を借りてもう一度御礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
2011年はアメリカからスコット・ジュレクという知名度の高い選手が参加し、大会への注目度が高まる中で開催されました。
序盤からそのスコットやブラジルのヌネスらがハイペースで飛び出し、一気に差を広げられましたが、10時間過ぎた辺りで二人とも脱落し、11時間経過の時点で私がトップに立ちそのまま逃げ切る形で、トータル261.257kmを走り大会6連覇を成し遂げました。
またこの年は他に世界で260kmを超えたランナーがいなかったので、2年ぶりに私が年間の世界1位の座に返り咲き、2002年から続けていた年間記録の260km超えを10年連続にまで伸ばす事ができました。
開催年度 |
距離 |
大会名 |
開催月/開催国 |
2002年 |
266.275km |
東呉國際超級馬拉松 |
3月 / 台湾 |
2003年 |
267.223km |
世界選手権ウーデン大会 |
10月/オランダ |
2004年 |
269.085km |
世界選手権ブルノ大会 |
10月/ チェコ |
2005年 |
264.410km |
東呉國際超級馬拉松 |
3月 / 台湾 |
2006年 |
272.936km |
世界選手権台北大会 |
2月 / 台湾 |
2007年 |
274.884km |
東呉國際超級馬拉松 |
11月 / 台湾 |
2008年 |
273.366km |
世界選手権ソウル大会 |
10月 / 韓国 |
2009年 |
263.408km |
東呉國際超級馬拉松 |
12月 / 台湾 |
2010年 |
268.126km |
東呉國際超級馬拉松 |
12月 / 台湾 |
2011年 |
261.257km |
東呉國際超級馬拉松 |
12月 / 台湾 |
過去10年の24時間走年度別最高記録
2001年に初めて東呉国際ウルトラマラソンに参加した時の私は、どこにでもいる「マラソン好きのお兄さん」でしかありませんでしたが、その大会で優勝して頭角を現し、2002年の大会でアジアのリーダーとしての存在感を世界に示し、そして2005年以降この大会の6連覇でその地位を不動のものにしてきました。
私にとって東呉国際ウルトラマラソンは恩人でもあり、先生でもあり、恋人でもあり、人生の全てを教えてくれたかけがえのない存在であります。
今後も大会が続く限り、私の脚が動く限り、この大会への参加を続け、色々なことを勉強させて頂きたいと思います。同時に、私がこれまでに経験した事、学んできた事を今後は皆さんに恩返しするつもりで伝えていけたらと思っています。
最後になりますが2002年から昨年までの年間世界1位と東呉国際マラソン1位の選手の記録をまとめた表をご覧下さい。
|
年間1位(国籍) |
記録 |
東呉1位(国籍) |
記録(年間順位) |
2002 |
Kouros Yiannis (ギリシャ) |
284.070km |
Kouros, Yiannis (ギリシャ) |
284.070km(1位) |
2003 |
Valmir Nunes (ブラジル) |
273.828km |
Valmir Nunes(ブラジル) |
273.828km(1位) |
2004 |
大瀧雅之 (日本) |
271.750km |
大瀧雅之 (日本) |
271.750km(1位) |
2005 |
Kruglikov Anatoliy (ロシア) |
268.065km |
關家良一 (日本) |
264.410km(2位) |
2007 |
關家良一 (日本) |
274.884km |
關家良一 (日本) |
274.884km(1位) |
2008 |
關家良一 (日本) |
273.366km |
關家良一 (日本) |
256.862km(7位) |
2009 |
關家良一 (日本) |
263.408km |
關家良一 (日本) |
263.408km(1位) |
2010 |
井上真悟 (日本) |
273.708km |
關家良一 (日本) |
268.126km(2位) |
2011 |
關家良一 (日本) |
261.257km |
關家良一 (日本) |
261.257km(1位) |
実はこの太字で示した部分は、東呉国際ウルトラマラソンの優勝選手が年間世界1位を獲得したという意味で、9回のうち6回、世界トップを輩出している大会という事がお解かりになると思います。
また世界2位も2回あり、2008年は7位ですが私自身は別の大会で1位を取りました。
はっきり言ってこれだけのグレードの高い大会は世界中どこを探してもありません。
まさに東呉国際ウルトラマラソンは「世界一の大会」と言っても過言ではないと思います。
もちろんその「世界一」の意味は大会運営の素晴らしさやスタッフ、ボランティアの熱心で真摯な取り組みの姿勢。会場全体の熱烈な盛り上がりなど、色々な事に対して当てはまる事で、その素晴らしいレース環境の成果が記録として表れたものだと確信しています。
今年もまたその「世界一の」大会に参加できる事を誇りに思い、最後までしっかりと走り抜きたいと思います。
明後日は皆さん一緒に力を合わせて素晴らしい大会を作りあげて行きましょう!
これで私の講演を終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。