宮古島3連覇の足音

 

宮古島100km試走会完走記

宮古島100kmウルトラマラソンは日本のウルトラマラソンの草分け的存在である海宝道義氏の呼びかけによって'981月に第一回大会が行われ、その後'99年、2000年と3月に大会が開催されている、日本では最も南の地で行われているウルトラマラソンのレースである(2001年はその名称を「宮古島100km遠足(とおあし)」と改められ1月に開催された)。

コースは宮古島の南部にある上野村のリゾートホテル、ブリーズベイマリーナ内にある博愛記念館をスタート・ゴールとし、島一周道路を反時計周りに廻り、途中東平安名崎(ひがしへんなざき)、池間島、来間島の折り返しを含む、緩やかなアップダウンが続くものの車や信号も少なく、歩道も広くて走りやすいコースではある。

私はこの大会の第一回から第三回まで3年続けてトップランナーとしてゴールのテープを切る事ができたわけだが、その事を語る前にどうしても触れておかなければならない大会がある。

実は第一回宮古島100kmウルトラマラソンが開催される前年、'973月に本大会とほぼ同じコースを使い、「宮古島100km試走会」という大会が開催された。

これは文字通り、将来の大会開催に向けて全国各地のウルトラランナーにそのコースを試走してもらおうという趣旨のもので、口こみだけの募集にも拘わらず100名弱のランナーの参加があり、制限時間も13時間として一般のウルトラレースと変わらぬ設定がなされていた。

この試走会に参加した当時の私は100kmを制限時間内に完走するのが目標の、単なる「ウルトラマラソン好きのお兄さん」というイメージで、実際にそれまでに走った2回の100kmマラソンにおいては'94年サロマ湖が11時間08分。'96年万里の長城(中国)が12時間55分と、平凡なタイムしか持っていなかった。

'97年の試走会は猛暑、炎天下でのレースとなった。

最高気温は25℃を超える夏日となり、紫外線の強さと路面の反射に包まれ、ランナーの体力や気力を容赦無く蝕んでいった。

元々競技性の高い大会では無かったのだが、エイドステーションも10km毎にしかなく、喉の渇きを潤すためにエイドでは自然と水分の摂取量が増え、脚だけでなく内臓へのダメージも相当に堪えた。

幾多のレースを完走してきた全国各地のつわもの達が次々とリタイヤしていく。

私も時間内完走ギリギリの1kmあたり78分のペースを午前5時のスタートからずっと守ってきたのだが、真昼の猛暑に体力を奪われて、ついに60km地点から歩きと走りが交互になり、70km地点から80km地点までは「もうダメだ~」と何度も呟きながら諦め気分でずっと歩き通した。

80km地点のエイドに到達したのが11時間ちょうど。残り20kmで制限時間まではあと2時間しかない。私はもう時間内完走を半分以上諦めていた。

たまたまこのエイドで一緒になった数人のランナーと、「もう間に合わないねぇ」などと話している時、コース上を巡回していた海宝さんの車が我々の側に横付けされた。

海宝さんは我々から弱気な発言を聞くと顔を赤らめて声を荒げ「あなた方は痛いの痒いの、何かと言い訳を付けてすぐに諦めるが、やってみなければ分からないじゃないか。あと2時間もあるんだから、色々と工夫して歩いたり走ったりしてみれば何とかなるかもしれないじゃないか」そして最後に「とにかくあなた方の為だけにいつまでもゴールを開けて待っている訳にはいきませんから。ショートカットしてでも制限時間内にはゴールに戻って下さい」と吐き捨てるように言うとそのまま車を走らせて行ってしまった。

私はカーッと頭に血が上るのを抑えられなかった。

もちろん海宝さんにではない。今まで走れない理由ばかりを探しては愚痴っていた自分に対して腹が立ってしょうがなかった。よーし、行ける所まで行ってやろうじゃないか!

そうして走り始めると今まで10km以上も延々と力なく歩き続けていたのが嘘のようにピッチが上がる。

エイドでも立ち止まらずに、まるでフルマラソンの給水ポイントのようにコップを拾い上げて通過して行った。

この時私は自分が走れる理由を色々と考えてみた。

「午後4時を過ぎて大分涼しくなっているはずだ」「今まで10km以上も楽をしていたんだから体力も残っているはずだ」「20kmのベストは1時間20分だ、楽勝じゃないか」「80kmのエイドでバナナを3本も食べたから体も復活してくるはずだ」「高校時代の野球部の夏合宿に比べればこんなのへっちゃらじゃないか」等々。

そして遂に最後は制限時間まで10分以上の余裕を持ちながら12時間49分でゴールのテープを切ることができた。

ゴール後にそのまま海宝さんの胸に飛び込み思いっきり泣いた。そして「ありがとうございました」と、何度も何度もお礼を言った。

もしもあの80km地点で海宝さんに叱られていなかったら。優しい言葉の一つでも貰っていたなら、この完走はあり得なかったと思う。

ウルトラマラソンとは「完走できる理由を拾い集めながら往く」ものだというのをこの時初めて実感した。最後まで決して諦めてはいけないのだ。

 

1997年の足跡

私が'98年第一回宮古島100kmマラソンで優勝するのは、制限時間と戦っていたこの試走会の僅か10ヵ月後の事である。

この間に、私自身にどのような変化が起こっていたのだろうか。

宮古島試走会完走後の私はますますウルトラマラソンの魅力に取り憑かれ、それこそ毎月のように各地で行われているウルトラマラソンの大会に出場していた。

試走会から僅か4週間後の330日、東京都福生市で行われた「青梅若草100kmチャレンジロード」を11時間42分(制限時間12時間30分)で完走すると、更にその4週間後には「富士五湖117km」を13時間44分(制限時間14時間30分)で完走した。

いずれも平凡なタイムではあったが、100kmマラソンを制限時間内に、確実に完走できるだけの力は付いてきているという実感を得られただけでもかなりの収穫だったと思う。

518日。皇居で行われた50kmマラソンの大会では4時間06分で完走する事ができた。

当時の私としては驚異的なタイムだったが、100kmが完走できるのだからその半分の距離のレースなら完走できるのは当たり前で、何の気兼ねも無くタイムを追求する事ができた結果だと思う。

この皇居50kmマラソンの結果を受けて、私には100kmマラソンでももう少し速いタイムで完走できる能力が備わってきているのではないかと思うようになった。

'94年に初めて走ったサロマ湖の記録をその後3年間、どうしても破れずにいた私は自己記録を更新したいという強い欲求が芽生え始め、更に練習にも熱が入るようになった。

月間走行距離も最低でも350kmは超えるようになった。

そして万全の走り込みをこなして8月末の「中国太原100kmマラソン」に挑んだ。

この大会は学芸大学の渡辺雅之運動生理学教授の呼びかけで、中国で行われた初の100km国際レースである。

事前の案内ではコースはほとんど平坦で、山西省という内陸部である事から8月でも涼しく、好記録が望める大会であると言われていた。

しかし実際には最高気温は38℃まで上昇し、排気ガスや炭鉱の粉塵で空気は悪く、おまけに途中600mの高低差を一気に上り下りする山を含む難コースで最悪の条件が幾つも揃った究極のサバイバルレースとなってしまった。

しかしそれでも私は最後は約40kmも歩きながらも何とか12時間37分でゴールする事ができた。

この時の参加者の中にはサロマ湖100kmマラソンで4年連続優勝している鈴木隆子さんや、各地のウルトラの大会で優勝や驚異的な記録を打ち立て、国内ウルトラマラソンの第一人者と呼ばれている沖山健司さん(太原でも8時間32分で優勝していた)。そしてその奥さんで、後のスパルタスロン優勝者にもなった沖山裕子さんら、錚々たる顔ぶれが揃っていた。

僅かな時間ではあったが、このメンバーの中に入って交わした色々な会話はその後の私に大きな影響をもたらせた事は間違いない。

もちろん話題の中心は各地のウルトラマラソンの情報であるが、彼らの話の内容ときたらスパルタスロン(ギリシャ。アテネ-スパルタ間246kmマラソン)の事。100km24時間走の世界大会の事など、どれもこれも余りにも凄すぎて私あたりが口を挟める余地などどこにも無かった。

鈴木隆子さんは私がマラソンを始めた頃からの憧れのランナーの一人で、雲の上の人だと思っていたのだが、沖山健司さんに到っては年齢も一歳しか違わず、自分の実力も顧みずに「いつかあんな凄いタイムで走れるようになりたい」とこの時から目標の片隅に置くような存在となっていった。

それから2週間後の914日。長野県で行われた「野辺山100kmウルトラマラソン」で、太原で芽生えたウルトラマラソンに対する意識革命が早くも結果として表れた。

野辺山のコースは厳しいアップダウンの連続で、途中には不整地の道もあり、まさに国内では最も厳しい難コースの一つとされているのだが、このレースで私はついに3年半ぶりに自己記録を大幅に更新。10時間06分の好記録が得られた。

またこのレース中に、偶然私のペースと前後して走っていた、視覚に障害を持つ保科清さん(後のシドニーパラリンピック、マラソン代表者)と知り合う。

視覚障害者が100kmを走るという事にも驚いたが、その保科さんと、中国を同行した沖山夫妻が伴走を通じての知り合いであったという事にもっと驚かされた。

レース後、保科さんの応援に駈け付けていた沖山夫妻と太原での話などで盛り上がる。

このレースを機に、沖山さんとの関係も急速に密になっていった。

口数はあまり多くないが、ウルトラマラソンに対する沖山さんの指摘は簡潔かつ的確で解り易く、その後も色々と相談に乗っていただいた。

1026日。神奈川県「三浦・湘南100kmマラソン」で初めて10時間を切り9時間40分で完走。

1115日にはニュージーランドで行われた「ザット・ダム・ラン100kmマラソン」に参加。9時間06分でゴールと、その記録は走る度に大幅に更新されていった。

ウルトラマラソンを通じた幾つもの出会いが私の意識を大きく変え、それがそのまま好記録に繋がっていった事は言うまでもない。

また、レースとレースの間隔が短かったため、前レースで学習した事や反省した事などがすぐに次のレースに反映されたので、その事も記録更新のために大いに役に立った事も間違いないだろう。

これだけ毎月のようにウルトラマラソンのレースに参加していて疲れないのかと、よく聞かれる事があったが、記録が向上している時や、いい走りができている時などはいくら走っても疲れないものである。

今振り返れば'97年という年は私のウルトラマラソン元年とも言える一つの転機の年であったと思う。

 

宮古島100km初優勝記

第一回宮古島100kmウルトラマラソンは翌'98年の117日の開催である。

まだ夜の明けきらない午前5時。レースディレクターの海宝さんの合図とともに262人のランナーがホテル・ブリーズベイマリーナを一斉にスタート。

私は1km5分のペースで、9時間を切るのを目標に、あまり周りのペースには惑わされずにイーブンペースで歩を進めた。

前年の試走会の優勝タイムが9時間07分であったので、自分にもひょっとしたらチャンスがあるかもと能天気に構えていたが、スタート直後から先頭集団からは大きく水を開けられ、22km地点の東平安名崎を折り返す頃には早くもトップと1km以上の差がついた。この時順位は10番手くらいに付けていた。

もともと順位には何の拘りも無かったので、前を気にする事もなく淡々とマイペースを刻んで行く。

東平安名崎の折り返し区間を終えて海岸線を池間島の方面へ向けて右折。

日の出と共に気温も徐々に上がって、ここからがウルトラマラソンの本来の醍醐味である耐久レースの幕開けである。

この日は走るには絶好の曇り空であったが、気温は20℃近くまで上昇した。

もちろん最高気温10℃にも満たない神奈川から前日に現地入りしたばかりのこの身には少々暑さが堪えてはいるだろうが、昨年の試走会や中国太原の時の暑さを思えば快適な温度と言っても良いくらいだ。

池間島へ向かう県道83号線は約25kmほどあるのだが、道の両側にはサトウキビ畑が広がる他には目立ったものの何も無い田舎道である。

緩やかなアップダウンが続くものの、呼吸を荒げなければイーブンペースを維持できないほどの急坂は全くないので、落ち着いてラップを刻む事ができた。

前半に飛ばしていたランナーが次々と落ちて来て、彼らを抜き去って行く。

私の方はもともと無理なペースでも無かったので、全くラップは変わらなかった。

試走会の時と違って、今回は5km毎にエイドも設置されているのでそれも有り難い。

とにかく走っていて楽しくて気持ち良くて仕方がなかった。僅か10ヶ月前、同じ道を苦しみながら走り抜いた残像がはっきりと記憶の中に残っているので、まるで今回のすべての条件が私に味方しているかのような錯覚に陥ってしまう。

「島一周道路」県道83号線に別れを告げて県道230号線(池間線)へ右折するとすぐに50km地点の県立宮古養護学校のエイドがあった。

ここで先行していたランナーに追い付くと、エイドのボランティアの方から現在5位である事を告げられる。

池間大橋から池間島へと続くこの池間線は片道10kmほどであるが、この道も両側にサトウキビ畑の広がる田舎道で、83号線同様収穫作業に追われる島民の方々以外に人の気配はまず無い。

55km地点狩俣購買組合のエイドで4位の選手に追い付く。

たまたまエイドにいた海宝さんから「そんなに速く走っちゃダメだよ」と、冗談とも本気ともつかないような口調でたしなめられた。

昨年の試走会で、同じコースで制限時間内完走を争っていた人間がその10ヵ月後、同じレースで今度は上位争いを展開しているのだから無理もない。

しかし私にとって今の展開というのはレース前にも大体予想できていたので、自分自身それほど驚くような事でもなかった。

全長1425mの池間大橋を渡り切り、池間島内のコースに差し掛かる頃トップの選手とすれ違った。トップの選手はあまり苦しそうな素振りも見せずに相変わらず飄々とした涼しい顔で走っていたが、約40km手前の東平安名崎ですれ違った時と私との差はほとんど変わっていない。

島内のコースを廻り、61kmのエイドに到着すると3位の選手に追い付いてしまった。

たまたまエイドにいた母が「すごい。すごい」と興奮気味に声援を送ってくる(宮古島へは試走会のときから第3回大会までずっと母と一緒にマラソンツアーに参加していた。もちろん母は応援専門だ)。

先の方に目をやると僅か数100mの差で2位の選手が力なく走っている。

「ようし。彼に追い付くぞ」

そして池間大橋を折り返し、65km地点狩俣購買組合のエイドで2位の選手に追い付いた。

50km地点からエイドの度に先行していた選手に追い付いて来た事になる。

彼らには申し訳ないが、私にとってこれほど走りやすくて痛快な展開もない。

エイドの度に目先の目標を捕らえ、また次の目標を定める事ができるので、遠い先のゴールよりも今現在のこの瞬間に全ての神経を集中する事ができた。

私の前にはあと一人のランナーしかいない。

今の調子だったら追い付けるかもと思い、少し優勝を意識し始める。

エイドの方に「トップの選手はどれくらい前に行きましたか?」と、聞くと、「だいぶ前に行きましたよ」との答え。それを聞いてからまた「やはりこれまで通りのマイペースを貫こう」という気持ちに戻った。

体調が良いせいもあるが、こんな劇的な場面に遭遇していても案外冷静だ。

池間島からの折り返しコースでは、これから池間島へ向かおうという後続のたくさんのランナーとすれ違うので、お互いに声を掛け合ったりして、元気をもらえるので暫し長旅の疲れからも解放される気がする。

もちろん顔見知りでない人がほとんどだが、同じ楽しみや苦労を共にしている戦友のような連帯感がそこに生じ、不思議と誰彼との分け隔ても無く声を掛け合える。

「トップとはあと○○m差だよ」

ランナーとすれ違う度にその差は確実に縮まってきているのが分かった。

そして70km地点、県立宮古養護学校のエイドで休んでいたトップの選手にとうとう追い付いてしまった。

トップの選手はさすがに疲れた様子で「この後はゆっくり行きます」と力なく私に話し掛けてきた。私は休憩もそこそこに、何か見えない力に背中を押されるようにエイドを飛び出して行った。

私の目の前には初めて先導のワゴン車が付いた。

「おいおい、マジかよ。どうしよう」気持ちが昂ぶってくるのを抑えきれない。

昨年はほとんど完走を諦めかけながら歩き通したこの区間を今年はトップランナーとして意気揚々と駆け抜けているのだ。

置かれている立場のあまりの違いに走りながら気持ちの整理がつかずに困った。

宮古島で一番人口や建物の集中している平良市内に入り75kmを過ぎたところで先導車に乗っていた大会事務局長の津川さんが降りてきて「関家さん、このまま行ったら明日の新聞に載りますよ」と、冗談っぽく囃したてる。

とにかくこのまま行けるものなら最後までトップで行きたいと思うと、少し休みたいなんて気持ちもどこかに吹き飛んでしまいそうだ。

平良港、パイナガマビーチを通過し80km地点へ。昨年海宝さんに叱られた事を思い出すと感慨深いものがあった。

あの時のラスト20kmの疾走を頭に思い浮かべ、もうひと踏ん張りとペースを上げる。

下地町を過ぎると再びサトウキビ畑の田舎道を行くようになり、先導車のスピーカーから繰り返し流れる100kmマラソン開催中の呼びかけと、BGMの「勝利のうた(沖縄県出身のロックバンド・ディアマンテスの曲)」だけが曇天の低い空に響き渡った。

89km地点、来間大橋の手前にエイドがあり、津川さんが紙コップに水を注いでくれた。「関家さん。このまま最後まで行っちゃいましょう!」

70km地点でトップに立ってから、わき目も振らずに走り続けてきたのでさすがに少し脚に疲労がきたようだ。ペースも弱冠落ちてきている。しかしいつ後続のランナーに追い付かれるかも分からない。私は見えない敵と戦いながら必死の思いで歯を食いしばった。

全長1690mという長い来間大橋を渡り終え、折り返し地点を踏んで再び来間大橋を逆走する。その折り返し区間が終わろうとする頃、2位の選手が来間大橋に差しかかろうとしていた。

残り約7km2位と3kmの差。この時初めて優勝できると確信した。

先導の車がワゴン車から、海宝さんの乗った普通乗用車に変わる。

海宝さんは私を先導しながら白いチョークと赤いテープを使ってコースマーキングをしていた。「そんなに速く走っちゃダメだよ」

相変わらずの涼しい口調で、私をからかうようにたしなめる。海宝さんの隣でお手伝いしていた女性もクスクスと笑っている。

私は声を掛けてもらうだけでも何だか嬉しい気分だった。

「博愛記念館まで後2.4km」という看板が目に入った。時計を確認すると、悠々9時間を切れるタイムだ。

昨年の試走会からの自らの「足跡」を頭の中で辿ると目に熱いものが込み上げてくる。

博愛記念館の入り口を右に曲がるとゴールまであと200m

黄色のゴールテープがピンと張ってあり、その横一文字を目指してラストスパート。

何度も何度も、ガッツポーズを繰り返し、そして最後は両腕をVの字に突き上げてゴールのテープを切り、そのまま倒れるようにしてゴールの向こう側で待っていた海宝さんの胸に飛び込んだ。

海宝さんは背中を2-3回軽く叩きながら「あなたに優勝してもらえて嬉しいです。素晴らしい走りを見せてくれてありがとう」と、労をねぎらって下さった。

気持ちが動転してしまい、現状をうまく把握する事ができない。

しかし自分はやったんだ。頑張ったんだという満足感で全てが満たされていた。

記録は8時間3746秒。

100kmマラソンの優勝タイムとしては平凡な記録ではあるが、262人の頂点にたった事は間違いない。

何よりも最後まで自分自身に負けなかった事を一番の誇りに思った。

地元のテレビ局、新聞記者のインタビューを終えた頃、応援バスに乗り込んでいた母がようやくゴール地点に帰って来た。

私を見つけると小走りに近付いて来て、まるで警察に預けられた我が子を引き取りに来たかのような口調で「お前、何やったの」と聞いてきた。

「優勝しちゃったよ」と、照れ笑いしながら答えると、おおはしゃぎになって疲れて寝転んでいた私を立たせ、ゴール付近の写真を撮りまくっていた。

母に対しても良い親孝行ができたなぁと思うと、すごく幸せな気分になった。

 

2回大会は翌199937日。289人の参加者を集めて開催された。

最高気温は25.5℃まで上がり、試走会の時を思わせるような猛暑の下でのレースとなったが、私は序盤からトップを独走。途中強風にも煽られて4kmも歩くという、走りとしては納得できないレースだったが、結果的には2位に40分近い大差をつけて2年連続優勝の栄誉を勝ち取った(記録は8時間33分)。

3回大会は200035日。306人の参加者。

一日中降り止む事の無い雨に見舞われたが、暑さの下でのレースと比べれば走りやすかったように思う。参加選手中最年少・18歳の地元沖縄の青年、田場君との一騎打ちとなり、途中彼に1km以上の大差をつけられて、3連覇危うしと思われたが、75km地点で逆転。最後は経験の差で勝利をもぎ取る事ができた(記録は7時間57分)。

今振り返るとそれぞれのレースに色々な思い出が詰め込まれている。試走会からのこの4年間、一般の市民ランナーが一生のうちに体験する事、あるいはやりたくてもできないような事を全てやり尽くしてしまったかのような充実感でいっぱいだ。

 

21世紀を迎えて

200111日。

21世紀最初の日を私は思い出の多い宮古島で迎えた。

今、大勢の人でごった返している東平安名崎(ひがしへんなざき)に立ち、島民の方々と一緒に美しく、また神秘的な初日の出を拝んでいる。

3回宮古島100kmウルトラマラソンで3連覇を果たした後、何か燃え尽きてしまったかのように20世紀の締めくくりはどうも自分自身しっくりとこなかった。

私自身、やりたい事を何にも縛られずに自由にやれる事が一番の幸せだと思っていたのだが、その事を追求しているうちにごく身近のものが見えなくなり、ふと気が付けば随分とたくさんの人に心配を掛けたり、時には傷付けたりしてしまっていたようだ。

そしてその結果大事なものをいくつも失ってしまった。

私には21世紀の幕開けとともに自分自身、「ゼロからのスタート」を切れる旅が必要だった。そして私は原点復帰(オリジン)の場所として迷わずこの宮古島の地を選んだ。

毎年宮古島100kmマラソンゴールの時にはいつも「ありがとう、ありがとう」と、何度も何度も周囲の方々や私を包む全てのものに対して自然と感謝の気持ちを口にしていたと思う。そんな素直な気持ちを取り戻したかった。

夜明け前、東平安名崎へ向かう懐かしい道をゆっくりと走ってみた。

レースではいつもただ前を見つめて突っ走っていたのだが、ふと空を見上げると星がたくさんで、しばらくウットリしながら立ちすくんだ。

私たちは本当に色々な環境に見守られながら今を生きているんだなぁと感じる。

やはり私にとって宮古島はマラソンだけではなく、人や自然、あるいは自分の存在を確認する原点の場所なのかもしれないとあらためて思った。

人生に偶然や無意味な時間は無いのだと誰かが教えてくれた。

今までの色々な出会いや経験は、私の全身に常に宿り、それによって今日も自分自身より良い方向へと導びかれているような気がする。

岬に立って色々な事を思い出しているうちに「ゼロからのスタートボタン」はあえて押さない事にしようと思った。

人や自然、私を包む全てのものに対して20世紀からの記憶、積み重ねてきたものなどをこれからも継続して受け継いで行きたいと思う。

そしてこれからの人生で私に訪れる全ての事に対しても、素直な気持ちで自分の中で自然に、またありのままに受け入れて行けたらと思う。

私はいつまでも私に色々な事を教えてくれたマラソンを続けていきたい。

そして21世紀もずっと、優しくて強いウルトラランナーを目指し続けて走って行きたいと思う。